イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
立て直し
「イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(マタイ17:11-13)
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エリヤの時代も不信仰な時代だったという。
北イスラエルは国を挙げてバアル信仰に傾倒していた。
(完全に忘れていたので、あんちょこで調べた。)
しかし当時はまだ、信心が目的であることに違いはなかった。
ところが、バステスマのヨハネの頃に時代が下ると、信心は目的ではなく手段に堕した。
たとえばイエスは、安息日についてパリサイ人から何度もつっかかられる。
彼らパリサイ人は、律法の遵守を目的とはしてはいない。
イエスを攻撃したいので、その口実に安息日の律法を利用しているにすぎない。
それにしても、パリサイ人たちが警察官のようにパトロールして回るのは、はたして安息日遵守には違反しないのであろうか。
不信仰というより、端的に言って秩序が崩壊しつつあったのだろう。ローマ占領下ということもあるかもしれない。
この、崩壊しかかった秩序は、十字架と復活のイエスによって立て直された。
使徒達は、多くの地域にこのイエスを伝え歩いた。
だが、そのような広がりについて以上に、多くの人が復活のイエスによって救われて、その魂が立て直されたのである。
言い方を変えると、崩壊しかかっていた人の内側が秩序を取り戻す。
元に戻るのではない。新しくなる。それも、一瞬にして立て直される。
物質主義全盛の現代は、カネというものが、もう、むき出しにして扱われている。
カネこそ全てと信じて疑わず、合理性にあまりに偏重している。
しかしそれでは、人の内側はひからびきってしまうのだ。
だからこそ、イエスとそのイエスによる立て直しという非合理さが、今まで以上に大切なように思う。
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健やかな一日をお祈りします!
しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(マタイ17:11-13)
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エリヤの時代も不信仰な時代だったという。
北イスラエルは国を挙げてバアル信仰に傾倒していた。
(完全に忘れていたので、あんちょこで調べた。)
しかし当時はまだ、信心が目的であることに違いはなかった。
ところが、バステスマのヨハネの頃に時代が下ると、信心は目的ではなく手段に堕した。
たとえばイエスは、安息日についてパリサイ人から何度もつっかかられる。
彼らパリサイ人は、律法の遵守を目的とはしてはいない。
イエスを攻撃したいので、その口実に安息日の律法を利用しているにすぎない。
それにしても、パリサイ人たちが警察官のようにパトロールして回るのは、はたして安息日遵守には違反しないのであろうか。
不信仰というより、端的に言って秩序が崩壊しつつあったのだろう。ローマ占領下ということもあるかもしれない。
この、崩壊しかかった秩序は、十字架と復活のイエスによって立て直された。
使徒達は、多くの地域にこのイエスを伝え歩いた。
だが、そのような広がりについて以上に、多くの人が復活のイエスによって救われて、その魂が立て直されたのである。
言い方を変えると、崩壊しかかっていた人の内側が秩序を取り戻す。
元に戻るのではない。新しくなる。それも、一瞬にして立て直される。
物質主義全盛の現代は、カネというものが、もう、むき出しにして扱われている。
カネこそ全てと信じて疑わず、合理性にあまりに偏重している。
しかしそれでは、人の内側はひからびきってしまうのだ。
だからこそ、イエスとそのイエスによる立て直しという非合理さが、今まで以上に大切なように思う。
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健やかな一日をお祈りします!
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