光の中

 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(1ペテロ2:9-10)

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 私たちはみずから「光の中」に入ることができたのではない。
 招かれて、それでこの「光の中」に入れてもらえた。
 「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」とさせていただいた。
 では、私たちはなぜ招いていただいたのだろう。
 それはわざではなく、恵みなのである。
 言い換えると、神にあわれまれる必要がある。
 それには、神のあわれみに対する飢え乾き、救いへの飢え乾きが欠かせない。

 「神の所有とされた民」とさせていただいたからといって、平生の生活が楽になるということはない。考え方や性格その他もなんら変わらない。
 この平生の塗炭の苦しみ、それを受け止められるだけの何かが据わるのである。
 「光の中」に招かれると、このような根源的なコアの部分がくるりと変わる。
 そうであるから、信仰はあるかないかだけであり、また信仰からいわば脱落するようなこともない。コアが変わったかどうかであり、また、メッキのようにはげ落ちたりはしない。

 この「光の中」への道筋をつけてくれたのがイエス・キリストであり、みわざとはその十字架と復活のことである。もっといえば、十字架から復活へと至る道のりこそ「光の中」への道のりである。

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