イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ことば/神のことば
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(1ペテロ1:23-25)
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神のことばについて。
ここでペテロが書く「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)に同じ。
つまり、聖書は一貫して「神のことば」ということに触れている。
「神のことば」なのであり、「ことば」とは異なる。
私たちは聖書を「ことば」として読み、受け取り、取り扱い続ける。言い換えると、教育を受けた上での理解の仕方をする。
しかし、それでは聖書は単なることばの連なりにすぎず、字面での意味を理解できたというのとどまる。
「草はしおれ、花は散る」ところのものと変わるところはない。
そして私たちは、聖書を「神のことば」として取り扱うすべを持っていない。そんな教育はどこからも受けていない。
ところが、「神のことば」とは、恵みによって上から与えられるものなのである。わざではない。
長く理不尽に思われる苦しみの果てに、突如この「神の言葉」が与えられる。
ここで、この大きな苦しみとはイエスの十字架の苦しみと同じものであり、「神のことば」が与えられてイエス同様復活する。
こうして与えられた「神のことば」はすなわち「いのち」であり、その人の一番奥底の部分が変わるということなので、それが取り去られることはない。
そのように上から与えられたときには、聖書のことばは今までとは全く異なる「神のことば」として輝きを放つのである。
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「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(1ペテロ1:23-25)
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神のことばについて。
ここでペテロが書く「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)に同じ。
つまり、聖書は一貫して「神のことば」ということに触れている。
「神のことば」なのであり、「ことば」とは異なる。
私たちは聖書を「ことば」として読み、受け取り、取り扱い続ける。言い換えると、教育を受けた上での理解の仕方をする。
しかし、それでは聖書は単なることばの連なりにすぎず、字面での意味を理解できたというのとどまる。
「草はしおれ、花は散る」ところのものと変わるところはない。
そして私たちは、聖書を「神のことば」として取り扱うすべを持っていない。そんな教育はどこからも受けていない。
ところが、「神のことば」とは、恵みによって上から与えられるものなのである。わざではない。
長く理不尽に思われる苦しみの果てに、突如この「神の言葉」が与えられる。
ここで、この大きな苦しみとはイエスの十字架の苦しみと同じものであり、「神のことば」が与えられてイエス同様復活する。
こうして与えられた「神のことば」はすなわち「いのち」であり、その人の一番奥底の部分が変わるということなので、それが取り去られることはない。
そのように上から与えられたときには、聖書のことばは今までとは全く異なる「神のことば」として輝きを放つのである。
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