わたしが来たのは

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
 さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

---

 アダムの肉を有する人間は、それゆえの罪にがんじがらめになってしまい、神の御前に極刑相応の重罪人に堕してしまった。
 そのことが「自分の十字架」であり、それを自覚できたならそれを背負ってイエスに従おう。

 そのとき、自分に権威を振るう人(父、母、しゅうとめ)には、おのずと逆らうこととなる。
 イエスがもたらすものは、このような剣であって、平和などではない。
 その人のがんじがらめの罪は、平和では解決のしようがない。
 罪を断罪できるのは、剣なのだ。
 イエスは、この剣を与えるためにこの世に来られた。

 イエスの剣の道、十字架の狭き道を通るとき、仮に肉のいのちを失おうとも、真のいのち、永遠のいのちを取り戻すことができる。

---

[付記]
 本日の記事は、2008年12月24日付の記事に筆を加えたものです。

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )