死ぬこと、生きること

 「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)

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 「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」は、アダム以来の人間の回復ということをコンパクトに言い表している。
 つまり、キリストの十字架に預かって「いのちを失った者は」、キリストの復活と同じようにして復活のいのちを得る。
 一方、単に「自分のいのちを自分のものとした者は」、それっきりになる。
 すなわち、肉に刻み込まれた罪の処理がされないのである。

 「わたしのために自分のいのちを失った」とは、端的に、死ぬことだ。
 死ぬと言っても、殉教だのなんだのといった肉体の死ではない。
 十字架に死ぬということ、極刑を受けるということだ。
 極刑はあまりに重く、かつてない苦しみに襲われる。ヨブと同じである。
 ただ、その極刑によって文字通り死ぬということは、イエスが身代わりになしてくださった。
 それで、私たちは肉体の死によっていのちを失う必要はない。
 私たちは、このように死ぬことによって、はじめて生きる。
 アダムの子孫は重罪人なので、救われるためのはこのような手荒な技が必要なのだろう。
 肉の死により罪を処罰するので、復活して罪赦される。これが「いのち」である。

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