イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
正しい人と取税人
「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)
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「取税人や罪人といっしょに食事を」することがタブーとされている世界での話。
これらの人々は、律法など自分は到底守れない、それがゆえに忌み嫌われていることを自覚している。
誰が彼らを忌み嫌っているのかというと、律法を守っている、と思っているパリサイ人とその影響下にいる人々である。
イエスが言う「正しい人」とは、このパリサイ人達を指す。
律法を遵守できていると思っている、正しい人。
。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と言えるほどの正しい人。
イエスは明言しているが、自分が来たのはこういう正しい人を招くためではない。
なぜなら、彼らを招こうにも、正しいと思っている彼らには「はぁ~?」となってしまうからだ。そもそも彼らの方が、イエスを全くお呼びでない。
イエスは罪の赦しをもたらすために、この世に来られ、十字架に架かって復活された。
この赦しのわざは、律法に照らして自身が罪深いことを自覚してはじめて、切望される。取税人達はその自覚があったので、イエスにすがった。罪をどうにかして欲しかったのだろう。
取税人も「正しい人」も、すべての人はアダムの肉を持ち、罪深い。
その肉の罪から救われるためには、その自分の罪に気付いているかどうかが別れ目となり、そのためにこそ律法がある。律法は、人を裁くためにあるのではない。
イエスは罪を悔いている人を招いている。
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すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)
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「取税人や罪人といっしょに食事を」することがタブーとされている世界での話。
これらの人々は、律法など自分は到底守れない、それがゆえに忌み嫌われていることを自覚している。
誰が彼らを忌み嫌っているのかというと、律法を守っている、と思っているパリサイ人とその影響下にいる人々である。
イエスが言う「正しい人」とは、このパリサイ人達を指す。
律法を遵守できていると思っている、正しい人。
。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と言えるほどの正しい人。
イエスは明言しているが、自分が来たのはこういう正しい人を招くためではない。
なぜなら、彼らを招こうにも、正しいと思っている彼らには「はぁ~?」となってしまうからだ。そもそも彼らの方が、イエスを全くお呼びでない。
イエスは罪の赦しをもたらすために、この世に来られ、十字架に架かって復活された。
この赦しのわざは、律法に照らして自身が罪深いことを自覚してはじめて、切望される。取税人達はその自覚があったので、イエスにすがった。罪をどうにかして欲しかったのだろう。
取税人も「正しい人」も、すべての人はアダムの肉を持ち、罪深い。
その肉の罪から救われるためには、その自分の罪に気付いているかどうかが別れ目となり、そのためにこそ律法がある。律法は、人を裁くためにあるのではない。
イエスは罪を悔いている人を招いている。
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