恵まれるために

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)

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 イエスがマタイに声を掛けられる。

 では、イエスは何故マタイに声を掛けたのであろうか。
 取税人だからか。罪人だからか。
 それもあるかもしれない。
 あるいは、自分の取税人としての職務に忠実だったからだろうか。
 なんといっても、たまたまイエスの目に留まったから、それでイエスはマタイに声を掛けられた。
 それを恵みの世界という。

 恵みは行ないとは異なり、すべての人に機会がある。
 だが、その機会を生かせる者は多くないかも知れない。
 恵まれるためには、多分、ひとつのことが必要だ。
 それは、自分が罪人であると分かっていることだ。
 バステスマのヨハネが来て悔い改めを説いた(マタイ3:2)ので、そうと気付く機会は既に与えられている。
 マタイは職業柄、パリサイ人からの責めに遭い、自分が律法を守ることの到底できない罪人だということに負い目を感じていたのかも知れない。
 そのパリサイ人はというと、人には言うが、自分は律法をやり通していると思っている(マタイ23:13)。
 そういう正しいと思っている人は、そもそも恵みを必要としていない。

 律法の行ないそのものではなく、その律法を守り通せないという認識。
 それが悔い改めであり、恵みをもたらすものである。

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