イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
罪をあぶり出す律法
「では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ7:13-17)
---
律法は、これを遵守しようとする類のものではない。
イエスの山上の説教でのような厳格な解釈をほどこした律法、その全てについて、人間は遵守できるような存在ではない。
(そもそもその山上の説教は、そのことを言っている。)
この律法は、もっぱらアダムの肉の罪をその人に指弾するために存在する。
人はまず、神の御前に罪深い存在であることを、この律法によって自覚する必要がある。そうしないと、救いもまた、論理的にありようがない。
「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」との思いを持たない人は、そもそも救いを求めないだろう。
自分は律法を遵守していると言い張るパリサイ人、律法学者とイエスが互いに対立するのは、当然のなりゆきである(マタイ23章参照)。
「もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。」
律法が罪をえぐりだすので、「律法は良いもの」なのである。
そしてアダムは、律法があぶり出したその罪に死ぬのである。
罪なきイエスは、身代わりに極刑の十字架に掛かって下さっている。
そのイエスが復活したように、罪に死んだ人もまた、イエスと同じ道を通って復活するのである。
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私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ7:13-17)
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律法は、これを遵守しようとする類のものではない。
イエスの山上の説教でのような厳格な解釈をほどこした律法、その全てについて、人間は遵守できるような存在ではない。
(そもそもその山上の説教は、そのことを言っている。)
この律法は、もっぱらアダムの肉の罪をその人に指弾するために存在する。
人はまず、神の御前に罪深い存在であることを、この律法によって自覚する必要がある。そうしないと、救いもまた、論理的にありようがない。
「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」との思いを持たない人は、そもそも救いを求めないだろう。
自分は律法を遵守していると言い張るパリサイ人、律法学者とイエスが互いに対立するのは、当然のなりゆきである(マタイ23章参照)。
「もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。」
律法が罪をえぐりだすので、「律法は良いもの」なのである。
そしてアダムは、律法があぶり出したその罪に死ぬのである。
罪なきイエスは、身代わりに極刑の十字架に掛かって下さっている。
そのイエスが復活したように、罪に死んだ人もまた、イエスと同じ道を通って復活するのである。
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