キリスト・イエスにある死とよみがえり

 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:6-11)

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 アダムの肉を持つ私たちは、ただ神の恵みによってのみ、キリストと共に十字架につけられる。
 この極刑によって裁かれ、死んでしまうことによって初めて、からみついていた罪、アダムの肉から解放される。
 そしてこのキリストがよみがえられたように、その人はよみがえってキリストにあって生きるようになる。

 「罪に対しては死んだ者」というのは、神の秩序たる律法にどこまでも反してしまう罪の肉に対する全くの無力さを認めることであり、「キリスト・イエスにあって生きた者」というのは、この罪深き肉が赦され神から義と認められている、そう信じることである。

 だから、回心とは、死とよみがえりのことであり、それはただ神の恵みによるのである。

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[付記]
 ほんじつの記事は、2008年10月1日付の記事を加筆したものです。
 タイトルも変更しました。

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