律法とイエスによる恵み

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)

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 神は人に、律法を授けた。
 人はこの律法を、微かにも守ることのできない存在でしかなく、神の秩序からは遠く掛け離れた存在でしかなかった。
(そのことに全く気付かないのが、パリサイ人である。)
 だから、人間には救いが必要になる。

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるため」というのは、事実そうなのであり、寧ろ、違反がよりはっきりするために律法が入ってきたと言ってもいい。
 違反とは、すなわち不義のことだ。
 自らの不義が明らかになればなるほど、その人は神の救いを求めるだろう。
 そして、その追い込み役こそ、律法の役割なのである。

 救いを求める者には、満ちあふれた恵みの下、身代わりに肉を十字架につけたイエス・キリストが出会ってくださる。
 不義という罪は死しか生み出さなかった。
 しかし、救世主イエスとの出会いは、「いのち」をその人に与える。それも「永遠のいのち」だ。
 イエスの救世主たるゆえんは、その十字架と復活によって、このような恵みによる救いの道を拓いてくださったことにある。

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