狭き道

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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 狭い門から入る狭き道とは、これからイエスが切り開く十字架の道を指す。
 イエスという「いのちに至る門」について、イエスご自身が「わたしは羊の門です。」(ヨハネ10:7)と仰っている。
 そうすると、大きい門から入る広い道というのは、当時で言うと、パリサイ人や律法学者が指し示す方向、ということになろうか。

 実際、この狭き門を見いだすことはとても難しい。
 探そうとして探せる類のものではない。ただ恵みによる。
 狭き門とは、十字架のイエスとの出会いだ。いのちの門をくぐり抜けて「いのち」をいただくということなのだ。
 そして、狭き道を歩む。
 狭いので楽ではないが、そうであることが、自分が正に狭き道を通っていることを自覚させてくれる。
 イエスの十字架の道と、歩みを共にするのである。
 だいたい、もし広くて楽な道を歩いていたら、「いのち」の有り難みはまるで感じないのではないか。

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