心の貧しさに目を向けるか、そむけるか

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 山上の説教より。

 まず、心の豊かな人というのは、どのくらいいるだろうか。
 心が貧しい(豊か)というときには、必ず自分の内面への洞察があるはずだ。律法は、そのための大切な道具である。
 そしてそのときに、自分の内面は貧しくなんかない、豊かだと、一体誰が胸を張れるだろうか。
 そういう人はいることはいる。というか、彼らは自分の内面から目を背けてしまうのだ。
 だが、このような人には、天の御国へのとっかかりがどこにもないので、救いようもない。
 自分の心貧しさ、内面のどうしようもなさを見つめて(というか、見つめざるを得ず)、何とかして逃れたくて外に手を差し伸べる。天の御国がそのような人により近いのは、自明のことだ。
 言い換えると、アダムの肉の醜さむごさに目を背けるか、見つめざるを得ないか、この違いである。

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