恵みについて

 「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:18-20)

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 いわゆる召命。

 イエスはここで、ペテロとアンデレに、次いでヤコブとヨハネに「ついて来なさい」と呼びかける。
 では、なぜこの4人にイエスは声を掛けたのだろう。
 勤勉そうだったからだろうか。
 漁師なのでたくましくて、とても力になりそうだったからだろうか。
 特に信仰に篤かったように見えたのだろうか。
 それとも、この4人こそ、必ずやご自身のお言葉を世界中に広めるに違いない、そう確信したのだろうか。

 おそらく、そのどれも違うだろう。
 イエスが弟子を必要としていたところにたまたまそこにペテロ達がいた、そんなところなのではないかと思うのである。
 つまり、ペテロ召命というのは、全くのたまたまなのではないか。
 というのは、恵みというのは、まさにこの、たまたま、の世界だからである。
 言い方を変えると、恵みは因果関係に基づくものとは全く異なる。
 たくましいという理由で恵みに預かるということはない。
 理由は、ないのである。

 信仰は恵みによる(ローマ3:24)というのも、上と同じ意味である。
 条件をクリアするよう努力してクリアできれば信仰に至るというのではない。
 律法を完全に遵守しようとすることそれ自体は、この恵みとは直接の関係はない。
(なお、律法は人に罪性を自覚させるための、非常に大切な過程である。)
 断食祈祷も、聖句暗記も、この恵みとは何の関係もない。
 ただ、求めれば与えられる。復活のイエスが訪れてくださる。
 この復活のイエスは、たまたま来てくださるのである。
 ペテロにとっても、まったくたまたま、イエスに声を掛けられた。

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