『死人』への恵み

 「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:19-22)

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 イエスは律法学者の申し出をあしらい、弟子には「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と、どうあっても自分について来いという。
 なぜ律法学者は弟子にしてもらえず、もう一人の男は弟子にしてもらえるのだろうか。
 律法学者が従前の律法解釈から離れることができないからだろうか。イエスはもう一人の男をよほど可愛がっていたのだろうか。

 そうではなく、どの人にもイエスの愛は降り注ぐ。
 これはむしろ恵みについてであって、もう一人の弟子がたまたま恵まれたというだけのことだ。
 恵みに理由はない。少なくとも、人間に理解できるような理由はない。
 たまたま、なのである。
 敬虔にしたから恵まれるとか、律法を型どおりに遵守したので恵まれるとか、そういう因果関係からは離れたところにあるものである。

 そもそも、私たちは敬虔でも何でもない。かけらほども律法を守れない。
 そのことに気付きすらしないのだから、なんという死人だろう。
 それほどの死人だからこそイエスの恵みが必要なのであり、この恵みによって我々死人はイエスに葬られてのちよみがえる。

 だから、求め続ければこの律法学者が恵まれるのはもちろんのことで、彼が恵まれて生まれ変わったら、うわべの敬虔さなどかなぐり捨てることだろう。

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[一版]2012年 2月26日
[四版]2024年 9月 7日

 イエス様の平安がありますように!

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