人としての死、人としてのいのち

 「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:17)

---

 死とは生物としての死を指すのではなく、人としての死を指している。
 また、いのちとは生物としてのいのちを指すのではなく、人としてのいのちを指している。
 「灰色にくすんで見える同僚たち」とか「毎月のノルマ達成に追われるだけ」といった表現が、様々な媒体に頻出する。仕事や生活に追われ続けて自分自身を見失ってしまうことだが、自分自身ではそうとは気づいていない。
 このように、人として死んでいる人というのは古今東西多くいたのだろう。まさに「ひとりによって死が支配するようになった」のである。
 現代においてこの死から逃れることは難しいが、この死から復活することはできる。
 イエスの十字架と復活がその初穂であり、イエスが救世主と言われるゆえんである。
 恵みによってイエスに出会うと、御父との和解によって罪赦されて、人としてのいのちがほとばしり出る。
 この復活のためには自分の死んでいることがすとんと腑に落ちることが第一歩であり、そのためにこそ聖書がある。

---

[一版]2021年 8月 7日
[二版]2024年 2月 4日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 十字架と復活... 出発点として... »