十字架と復活という神の愛

 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)

---

 ヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、上の聖書箇所は聖書のサマリーといえるかもしれない。
 ここでパウロが書いていることは、頭で考えついたものではなく、パウロの体験と実感そのものを書き付けたのだと思う。イエスの死と復活はパウロ自身体験したことであるが(使徒9:3-19)、これをパウロは「神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」と記している。まさに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)のである。
 パウロ(サウロ)の教会迫害も相当なものであったが、自分を省みると、何一つ守ることのできない罪深さ、どうしようもなさを今も思う。何故イエスはこんな私を十字架と復活を通して救ってくれたのだろう、いや、あまりにもどうしようもないからこそ救ってくださり、どうしようもなさすぎるからこそイエスは私を愛してくださる。本当に愛してくださる。
 そうであるから御父への大きな喜びが内側から溢れ出てくるのは自然なことで、頭で考えついたものとは違う。

---

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへにほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 患難が生み出... 人としての死... »