御父の怒りと救い

 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:2-6)

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 出エジプト記の十戒より。

 ここで、御父はご自身を「ねたむ神」と自己紹介している。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というほどのものだ。
 他の神々があって、「主」というところの御父がいるのであれば、まず、私たちは何故御父に仕え御父を信じているのであろうか。
 これには理由はない。御父が私の神なのであり、その御父が私と和解してくださっている、このことに尽きる。付言すると、私が御父を選んだのではない。御父が私を見いだしてくださったのだ。
 そうすると、仮に私たちが他の神々に仕え他の神々を拝んだならば、このねたむ神にとっては裏切り行為に映るだろう。偶像を作ることすらそうなのだ。

 では、現代に生きる私たちが、御父以外の他の神に仕えていたり偶像を拝んだりしているだろうか。結論から言うと、私たちはあらゆる神々に仕え、すべての偶像を拝んでいる。
 物質社会全盛の現代では、まず、金銭が最上位の神である。端的に拝金主義だ。
 そしてそのために、自己啓発というものがある。他人をごまかし、自分をごまかす。そして人々は、この自己啓発という卑なる聖書を教典とするようになった。
 組織の論理や法令こそ律法だ、という人々も多くいる。彼らは、組織の中のみならず、生活の場に帰ってすらその律法を適用する。
 テレビを見れば、数多くの偶像と、その偶像に酔いしれる人々を見ることができる。ちなみに、いわゆるスターが登場したのは、映画が普及した20世紀に入ってからのことだ。

 卑なる神、卑なる聖書、卑なる律法、卑なる偶像。これら何ら人を生かさないもの。
 合理主義のもとで、私たちはこういったものに仕え続けている。
 十戒をはじめとする律法は、とても簡単に守れるようなものではないのであり、そのことはイエスが山上の説教で言ったとおりである。
 そのことが何を意味するのかというと、ねたむ神は私たちを律法違反で罪深いとお怒りなのである。
 だが、この律法、この怒りは、人の罪をあぶりだすためのもので、その人を生かすためのものである。
 罪を罪と気付くことが救いのスタートラインであり、その先にはイエスの十字架と復活が待っている。

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 健やかな一日をお祈りします!

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