みなし義人

 「しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:23-25)

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 私たちは、いわゆる義人ではない。
 それどころか、神が与えた律法の基準によれば、その義人からはるか程遠い罪人であることを認めざるを得ない、そのような惨めな存在でしかない。

 だがその神はそのような私たちのために、御子イエスをお送り下さった。
 「私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるため」、イエスはこの世にやってこられた。
 そのこと、つまりイエスの十字架と復活を信じるとき、義人とはとても言えない私たちを神が義とみなして下さる。
 信じることで「みなし義人」となるのである。
 アブラハムへの約束と同じものに預かることができることに変わりはない。

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