律法という怒り

 「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。」(ローマ4:13-15)

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 たとえば「姦淫してはならない」という律法について、それを遵守することによって相続人になりたくてそれで姦淫をしないのだとしたら、それはむなしい。
 律法を守ることが自己目的化してしまうこのむなしさは、パリサイ人によく見られる。
 姦淫をしないことそれ自体は、たやすいことだ。実にたやすい。
 しかし、イエスが問題としているのは、姦淫をしうる肉の性質そのものについてであり、それでこの律法を果たして本来的に守れるのかと山上の説教で説いている(マタイ5:27-28)。

 つまり、人間の肉に突きつけられた神の律法は、そのアダムの肉への神の怒りをアダムに気付かせるためのもので、「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」(ローマ7:7)とあるのと同じである。
 そして贖罪の十字架を信じて創造主と和解することにより、私たちはこの怒りを免れた。

 律法を知らないならば自分の違反を知ることも神の怒りに気付くこともない。
 しかしそれは気付かなかっただけということにすぎない。
 私はモーセを通して神の律法を知り、更にイエスによってその本来の意味を教えられたことを感謝している。
 神の怒りに触れることによってはじめて、イエスに出会うことができたからだ。

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