運命

 「この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」(ヨハネ12:21-28)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、次のように書いている。

    「運命とは自分で切りひらいていくもの---というより、
     向こうから覆いかぶさってくるたいへんな重荷だ。
     圧倒的に重い。やりきれない。
     だからこそ言いようなく惹きつけられるんだ。
     それをまともに全身に受け止め、自分の生きがいに転換するか、
     あるいはていよく逃げるか。
     人間的な人間は、幸・不幸にかかわらず、
     まともに運命を受け止める。」
         (「孤独がきみを強くする」,p.68)

 イエスは、自分がなぜ受肉してこの世にいるのかをあらかじめわかっている。
 いままではその時は来ていなかったが、ついにその時が来た。
 神の子イエスをして、この重荷に圧倒されている。
 受け入れる以外にはない運命に戸惑い心が騒いでいる。

 それにしても、運命とはどうしてこうも突然やってくるのであろう。ベートーヴェン交響曲第五でのあの有名な出だしも正にそうで、向こうからいきなり扉が叩かれる。
 こういうことが一生のうちで多分数回はある。
 上の聖書箇所でのイエスは、イエス自身の運命を受け入れる以外にはない。
 その点私たちはていよく逃げることもできる。しかしそれでは人生の方から見限られるだろう。
 逆に自力で切り開いてやろうと力むほど、よけいにこじれて収拾がつかなくなる。
 そしてこういうとき、人はまったくあてにならない。ヨブの友人たちを見ればよく分かる。
 私たちにできるただ一つのことは、自分の全存在を御父にお委ねすることだろう。上の聖書箇所でのイエスも正にそうだった。

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[一版]2020年 1月19日
[二版]2021年 1月22日
[三版]2023年 3月12日

 健やかな一日をお祈りします!

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