恵みと対価との違い

 「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:1-5新共同訳)

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 恵み、ということについて。

 「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」
 つまり、行いによって得られるものは、その行いに対する対価にすぎない。
 そして、その対価を支払うのは人なのである。神ではない。
 たとえば、四つ角で断食祈祷をしたとして、その場合の対価とは人からの敬意と幾ばくかの献金といったところだろう。
 今、罪深い私たちは、神との関係性の回復によって救われたいのである。人からの対価が、一体何になるというのだろう。

 恵みとは行いに対する対価ではなく、また、行わなかったことによる対価でもない。
 つまり、因果関係がない。
 「不信心な者を義とされる」ほどの因果のなさ、だからこその恵みであり、神からの一方的なプレゼントなのである。

 そうすると、私たちにできることとは何であろう。
 因果のない恵みを信じて待ち続けることである。
 「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」というところの「信じた」というのは、信仰そのものというよりは、その信仰に至ることを信じて待ち続けたことを指している。
 待ち続けて恵みによって義と認められ、そしてアブラハムは信仰に至るのであった。

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[一版]2015年 3月22日
[二版]2019年 9月14日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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