やみと光

 「また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(ヨハネ12:44-47)

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 「やみ」と「光」。
 これは、処世術についてのことではないし、成功や失敗といったことでもない。

 「やみ」とは、ここでは神を見いださないこと。
 たとえばカネが原動力という人は少なくないが、それが「やみの中を歩く者」に当たる。
 カネが目的であったはずが、いつのまにカネが手段に化けてしまう。通帳の数字が大きくなることがうれしいのであれば、それは単に刺激を求めているだけだろう。ゲームのハイスコアと同じだ。
 ワーカホリックというのも、仕事が手段化して刺激を求めている。若い頃の自分もこうであったし、今の多くの人もこうではないかという気がする。
 やみにとどまる者は本当のものを持っていないので、代替物である刺激で埋め合わせをするしかない。だから、上に書いたような手段化がたやすく生じる。

 対して、「光」とは神である。
 光に向かってやみから脱すると、心満たされ、平穏さが訪れる。
 私が自分で動くのではもはやなく、内住の聖霊に従って私が動かされている。
 本来必要なものに満たされ、代替物としての刺激は不要になる。
 足ることを知るので、目的と手段とが転倒することもない。

 どちらの方に価値を置くかは、人それぞれかもしれない。
 しかし、代替物としての刺激しかなく本当に欲しいものがどこにもないというのは、頭がこれを良しとしても、体や心は正直に反応するのではないか。
 そして、このやみに参ってしまった者が、光の方をみやる。
 復活のキリストは、今も聖書を通して光り輝いている。キリストは、光の方を見る人を見捨てることを決してしない。

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[一版]2014年 8月31日
[二版]2019年 2月11日(本日:聖書箇所も変更)

 健やかな一日をお祈りします!

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