神を信じるのか、神を利用するのか

 「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(マタイ14:25-33)

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 イエスはペテロに、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言う。
 では、ペテロは何を疑ったのだろうか。
 水の上を歩くことなどできやしないという疑いだろうか。
 もちろんそのことも含まれるが、ペテロはイエスを神の子とはまるで信じていなかった。
 そのことが、この件で図らずも明らかになったのである。

 ペテロはイエスの「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」ということばでは納得せず、かえって「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と言い出す。
 これを言い換えると、イエスだったら証拠を見せろと試しているのであるから、一番弟子ペテロはイエスのことなどちっとも信じていないではないか。

 主よ主よ、と言い寄る者ほど単に助け出して欲しいだけで、神を神そのものとは認めていない。自分にもそういう時期は短くなかった。
 神が行う奇跡の部分だけを取り出して、その取り出した部分にだけすがっている。
 それは神を信じているのとは違う。神を利用としているだけで、ご利益宗教の形になる。
 そもそも、人が神を信じることはできない。神が分からないから、信じようがない。
 そうではなく、神が人に信仰を与えるのである。復活のイエスが会いに来てくださるのだ。
 だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
 イエスは「信仰の薄い人だな」と言うが、知恵のある言い方だと思う。

 では、信仰のない者が信仰を持つ者になるには、どうしたらよいのだろうか。
 誤解されることを承知の上で書くと、罪の重荷に苦しみ果てることのように思う。
 罪とは神の律法を守れないことである。言い換えると神の敵とでもいおうか。
 自分が神の敵であることに苦しみ続けていると、やがて十字架と復活の主がその人の元を訪れ、神を神そのものと分かってこの神との和解に至る。
 もしも神が御利益の神だとしたら、なぜ律法というものがあるのだろうか。
 神に、水の上を歩かせてくれることをもっぱら求めるのであれば、その人は神を神としてとらえていないし、罪に苦しむ過程もまたないだろう。
 もっともペテロは単にお調子者だったので、それで「水の上」を言い出しただけかもしれない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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