人間の2種類

 「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:18-23)

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 種蒔きのたとえの、イエス自身による謎解き。

 ここでは、4種類の人間がたとえられている。
 道ばた、岩地、いばら、そして良い地。
 もっといえば、人間には2種類しかいない。
 実を結ぶ人か、結ばなかった人か、その2種類である。
 言い換えると、救われる人か、救われない人か。
 聖書には、この2種類についてのたとえ話がとても多い。たとえば五人の愚かな娘についてのたとえ話(マタイ25:1-13)など。
 この2種類とは、畢竟、御父の御恵みについてのことで、主権は人間の側になどなく、どこまでも神の側にある。
 神が恵もうとされるか、そうとは思われないか。乱暴だが、人間の2種類とはこの区分である。
 だから、誰が救われるかなど、誰にもわからない。

 では、救いとは確率的なもので、何もやらなくても運が良ければ救われるのであろうか。
 それは違う。救われるための準備をしておく必要がある。
 具体的には、自分が神の御前に罪人であることを悟ることだ。
 そして、罪人であることがわかるためには、神の律法をどこまでも遵守してゆく必要がある。
 そのように自分を耕して耕して「良い地」にしていって、罪人が救われるための御恵みを待つのである。

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[一版]2016年 4月 3日
[二版]2018年 4月 8日(本日)
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