イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエス復活
「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)
---
イエスの復活。
11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。
私には、この復活の仕方が不思議でならなかったことがある。
エルサレム中の人々の前に復活の御姿を現せば皆イエスを信じるのではないか、そう思っていた。
しかし現実には、11人の弟子たち、それから数人の女性たちにのみ、復活のイエスは御姿を現す。誰にもかれにも会われるのではなく、特定の限られた人々にのみ会われた。
今の私は、このことに違和感を全く感じない。すべては恵みなのだ。
それから私には、もう一つ不思議でならなかったことがある。
それは復活そのものについてのことだ。そもそもそんなことが本当にあるのか、と。
今の私は、復活について疑うことはなにもない。
なぜならそれは確かなことだからだ。
聖書において、十字架の死と復活とは必ずペアである。
死んでこそはじめて生きる。
死とは苦しみの果ての処理であり、ここでいう十字架の死とは罪の処理である(ローマ8:1-3)。
そして、復活のイエスが会ってくださり罪赦されて、イエス同様復活する。
この狭い道は、誰もが見いだせるものではなく、それどころか見いだすというよりもいつの間に吸い込まれてしまう類のもので、自分の力でどうこうなるものではない。
しかし求めれば与えられるものであるから(マタイ7:7)、そもそも罪とは何か、御父は私の中の何を罪深いと糾弾し続けるのか、このことから始めよう。それが「悔い改めよ」(マタイ4:17)というイエス宣教の最初のことばの意味である。
御子イエスは、事を成し遂げた。
救いの道が開かれた。
このイエスに信頼する者は、報われるに違いない。
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そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)
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イエスの復活。
11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。
私には、この復活の仕方が不思議でならなかったことがある。
エルサレム中の人々の前に復活の御姿を現せば皆イエスを信じるのではないか、そう思っていた。
しかし現実には、11人の弟子たち、それから数人の女性たちにのみ、復活のイエスは御姿を現す。誰にもかれにも会われるのではなく、特定の限られた人々にのみ会われた。
今の私は、このことに違和感を全く感じない。すべては恵みなのだ。
それから私には、もう一つ不思議でならなかったことがある。
それは復活そのものについてのことだ。そもそもそんなことが本当にあるのか、と。
今の私は、復活について疑うことはなにもない。
なぜならそれは確かなことだからだ。
聖書において、十字架の死と復活とは必ずペアである。
死んでこそはじめて生きる。
死とは苦しみの果ての処理であり、ここでいう十字架の死とは罪の処理である(ローマ8:1-3)。
そして、復活のイエスが会ってくださり罪赦されて、イエス同様復活する。
この狭い道は、誰もが見いだせるものではなく、それどころか見いだすというよりもいつの間に吸い込まれてしまう類のもので、自分の力でどうこうなるものではない。
しかし求めれば与えられるものであるから(マタイ7:7)、そもそも罪とは何か、御父は私の中の何を罪深いと糾弾し続けるのか、このことから始めよう。それが「悔い改めよ」(マタイ4:17)というイエス宣教の最初のことばの意味である。
御子イエスは、事を成し遂げた。
救いの道が開かれた。
このイエスに信頼する者は、報われるに違いない。
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