祈りについて

 「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:45-46)

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 祈りについて、また、祈りの応答がないということについて。

 公生涯において、イエスは実にしばしば祈っていた(たとえばマタイ14:23ほか)。
 何を、または何について祈っていたのだろうか。
 そもそも祈りとは何だろうか。
 この日本においては、祈りというと初詣や厄除けの類のものが祈りであると思われている。
 つまり、家内安全、商売繁盛、無病息災のお願いの類であり、神(神々)はこういった御利益をかなえてくれる便利な存在なのであるから、神に命令する形となり神よりも人の方が上に位置してしまっている。

 しかし聖書の神は、そのような御利益の神の感覚とは全く違う。
 神が私をお造りになったのであり、神が絶対的な上位にある。
 ところが、アダムの違反によって、この神と人間との間が断絶してしまった。
 イエス・キリストは、その断絶を回復するために来られ、そしてその御業を完成させようとしている。
 その神の子イエスが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と声を上げ、御父とすら断絶されてしまったことにひどく苦しんでいる。
 つまり、ほんとうにひとりぼっちの境遇におかれてしまった。
 祈りが通じないのである。

 逆に、祈りとは被造主である御父と共にある、そういう営みである。
 私が祈るとき、どんな境遇にあっても私はひとりぼっちではなく、自分よりずっと大きな存在の庇護の元にある。
 御父は罪深い私のその罪深さをイエスを介して赦してくださった存在であるから、私を決して否定せずに私を愛してくださる。

 繰り返すが、祈るとき私はひとりぼっちではなく、世界をお造りになった存在と共にある。
 それはイエスが十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と苦しみつつも赦しの道を開いたから、そうなったのである。

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