信仰ということ

 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(1ペテロ1:7新共同訳)

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 信仰とは、信じるものではなく信じさせられるものである。
 その、信じさせられるときに必ず通るのが、イエスの十字架と死と復活であり、その信仰へと至る道を切り開いたのはイエス自身である。
 つまり、極刑とされ、その刑に服して死に、復活して信仰に至る。
 これが上の聖句で言う試練であり、かつてなかったほどの苦しみを味わい、これこそ本物である証である。もっとも、その証とは他人に分かる類のものではない。
 いただいた「いのち」は金銀よりもなによりも得難く、罪赦され、神からの責めはもうない。

 そうであるから、私たちが日常味わう試練は、ここでいう試練とは異なるものである。
 だが、救われた者は、その日常味わう試練に堪えやすくなることは確かなことだ。
 信じさせられたがゆえに味わう類の試練が少なからずあっても、それにも堪えやすくなる。
 それは私たちが、支えられているからだ。

 十字架の道は、恵みとしかいいようがない狭い道で、おそらく、見つけようとして見つかる類のものではないだろう。むしろ、吸い寄せられるのである。
 パウロ(サウロ)も、自分から信じたのではない。強引に信じさせられた(使徒9:3)。
 恵みとはこういうもので、誰にでも機会がある。

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