イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
神の死のありがたみ
「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」(マタイ27:46-50)
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神の死。
それも、極刑の十字架の上での死。
この極刑は、イエスが極刑だ、というよりかは、むしろ本来私たちが神の御前に極刑に処せられるのであり、その私たちの極刑を神の子イエスが身代わりに背負っている。
イエスは死んだことのある神であり、それも極刑に死んだ神であり、さらに、私たちの罪のすべてを引き受けて身代わりに十字架に架かった神である。
そのようにイエスは私たちのために死んでくださった。
それは私たちの罪が赦されて「いのち」を得るためであり、そうであるからイエスは私たちにとって救い主なのである。
その十字架の上で、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と漏らす。
祈りを通していつも御父と共にいたイエスが、もはやその御父からすら断絶してしまった。
つまり、アダムの違反によって御父から断絶している私たちと同じ状態をも、イエスは経験したのである。
それで御子イエスは、人間の苦悩、それももっとも根底のところにある苦しみを、身をもってわかっている。
そして、その復活のイエスは御父と私たちとの間のとりなしをしてくださっている。私たちをわかっているからこそ、そのとりなしができるのである。
そうすると、イエスの十字架と死はありがたみのあることであり、悲しむようなことではないはずだ。
加えて、イエスの死は復活と必ずペアなのである。
私たちも同じように死に、そして復活して赦される。その赦されるための道筋をこのようにイエスがつけてくれたのであるから、やはり悲しみよりも感謝の念の方がそぐうのではないかと思う。
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すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」(マタイ27:46-50)
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神の死。
それも、極刑の十字架の上での死。
この極刑は、イエスが極刑だ、というよりかは、むしろ本来私たちが神の御前に極刑に処せられるのであり、その私たちの極刑を神の子イエスが身代わりに背負っている。
イエスは死んだことのある神であり、それも極刑に死んだ神であり、さらに、私たちの罪のすべてを引き受けて身代わりに十字架に架かった神である。
そのようにイエスは私たちのために死んでくださった。
それは私たちの罪が赦されて「いのち」を得るためであり、そうであるからイエスは私たちにとって救い主なのである。
その十字架の上で、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と漏らす。
祈りを通していつも御父と共にいたイエスが、もはやその御父からすら断絶してしまった。
つまり、アダムの違反によって御父から断絶している私たちと同じ状態をも、イエスは経験したのである。
それで御子イエスは、人間の苦悩、それももっとも根底のところにある苦しみを、身をもってわかっている。
そして、その復活のイエスは御父と私たちとの間のとりなしをしてくださっている。私たちをわかっているからこそ、そのとりなしができるのである。
そうすると、イエスの十字架と死はありがたみのあることであり、悲しむようなことではないはずだ。
加えて、イエスの死は復活と必ずペアなのである。
私たちも同じように死に、そして復活して赦される。その赦されるための道筋をこのようにイエスがつけてくれたのであるから、やはり悲しみよりも感謝の念の方がそぐうのではないかと思う。
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