肉をまとうイエス

 「それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:37-39)

---

 ゲッセマネの祈り。

 十字架でのはりつけを前に、もだえ苦しむイエス。
 この十字架という杯は、御父の命令、みこころだ。

 イエスが単に神の子というのであれば、御父に淡々と従い、もだえ苦しむことも、また泣き悲しむこともなかったろう。
 だがこの時点でのイエスは十字架を前に、私たちと同じようにもだえ苦しみ、泣き悲しむ。
 それはイエスが神の子というのみならず、私たちと全く同様に肉を身にまとった弱い身であったということである。
 だからイエスと私たちとの最大の接点は、この肉、それも弱い肉というところにある。
 それでイエスは、私たちアダムの肉にまみれた弱き人間のことをよく分かっていて、今も思いやり深く接してくださる(参/ヘブル4:15)。

 そのイエスは、これから十字架という杯を飲みほし、身代わりの処罰を受けることとなる。

---

[一版]2008年 8月25日
[二版]2014年 1月 4日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )