何を求めるか。

 「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:6-8)

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 「求めなさい。そうすれば与えられます。」は有名な聖句。
 だが、今まで私はこれを、自分が欲しいものなんであっても祈り願えば与えられると思っていた。
 しかしそれはとんでもない誤りで、そう解釈するとイエスの言葉は単なる御利益宗教に堕してしまう。
 それに、そう解釈すると、話の流れとして6節がなぜあるのかが分からなくなってしまう。

 イエスに願い求めるものは、聖なるものであり真珠である。
 これらを「いのち」と呼び直してもいい。
 ところが世はこれらを憎むかもしれない。ここでは犬とか豚に例えられている。
 豚に真珠が似合わないのではなく、豚は真珠を心底憎み、踏みつけた上で持ち主にまで襲いかかる。
 聖なるものと世とは、水と油なのである。

 この世で生きづらい者、肉の不自由さに悩んでいる者は、イエスを求め、捜し、ドアを叩けば、恵みによって誰でもイエスに出会うことができ、「いのち」を頂くことができる。
 これがイエスの約束であり、私たちは求め続ければ必ず救われる。
 求めることは生活上の些末なことやこの世のことではない。
 イエスとの出会いをこそ、私たちは求めるのである。

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[付記]
 本日の記事は、今までのマタイ7:6-8についての諸記事を参考にしつつ、新しく書き直しました。

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