『信じる』ということ

 「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:26-20:29)

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 懐疑主義的な弟子トマスと復活のイエスとの出会い。
 トマスの不在時に復活のイエスが現れたと聞いたトマスは、自分はそんなことは信じないと言い張った(20:19-25)。
 そのような者にも、ただ恵みによってイエスは会ってくださる。
 誰にでも機会はあるのだ。

 トマスが復活のイエスを信じたのは、イエスのからだをあれこれ点検できたからでも、また、イエスを間近に見たからでもない。
 復活のイエスと出会ったからである。
 今、わたしたちは復活のイエスを見るということはない。
 だが、イエスは来てくださって、イエスと出会うことができるのである。
 そのときに信じないでいるということができないことは、トマス同様だ。

 さて、イエスは「戸が閉じられていたが」来られる。
 人間の肉には、それは不可能なことだ。
 だが復活のイエスには、それができる。
 わたしたちが復活したときに着るものがもしアダムの肉であったとしたら、死んで復活することの意味が全くなくなってしまうのだ。

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