神融心酔 

中国茶・台湾茶を中心とした素敵な出会いの数々を綴っていきます

無題

2017-06-11 | 茶話
先日車を運転していてラジオを聴いていたら、小松美羽さんと言うアーティストがゲストだった。
彼女のちょっとスピリチュアルな話が面白くて印象的だった。

その数日後『花戦さ』と言う映画を観た。
映画には「れん」と言う絵師の娘が登場し、ダイナミックな蓮の絵を描くのだが、その制作を小松美羽さんが担当していた。
(トップ写真はその蓮の絵の複製。東京ガーデンテラス紀尾井町にて)

そして数日後、またラジオを聴いていたらゲストで出ていらして、今紀尾井町で展覧会があることを知った。
これは何かのご縁かとも思い、会場に足を運んでみた。



ものすごいパワーだった。
彼女は第三の眼を開いて創作すると言う。
何かに突き動かされるように筆が走る。
それは自己表現と言うよりは使命感のようなものらしい。

芸術は古来神に捧げるためのものだった。現代は少し作者の自我が先に走りすぎている、それを少し原点に戻したい、
と言うような彼女のコメントが展示の横に書かれていた。

小松美羽さんは見目麗しい。とても目立つ存在だ。
作品はアグレッシブでパワフル。
メッセージの受け取りは観賞する私たちに委ねられている。
ともすれば自我の爆発と取られるかもしれない。
だが彼女の視線は眼に見えないもの、そして宇宙へと向かっている。
彼女の創作における姿勢は自我から解放され、むしろ謙虚だ、と感じた。

映画『花戦さ』の佐藤浩市演じる利休にも、同じ印象を持った。
利休像というのは人それぞれと思うが、私にとっては今回の利休はとても受け止めやすかった。
茶の道は禅の修行の一部でもある。
茶の湯の前に自我を押し留め、ただ、人をもてなすことに集中する。
客はその空間に解放され、おおらかに包み込まれる。

両者に共通するのはまずはぶれない自我というものがあり、
そこから自由になり、外へと向かっていること。

この世界には眼に見えないことで大切なものがどんなに多いことか。
それを忘れず、謙虚に、自我に埋没することなく茶の道を歩めたらと思う。
「自分」を前面に出す風潮の強い昨今、そんなことをつらつらと考え巡らせている。

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