神融心酔 

中国茶・台湾茶を中心とした素敵な出会いの数々を綴っていきます

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千葉県松戸市にて中国茶教室「Salon de Leecha 麗茶」を主宰しています

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茶話② 茶器

2023-04-14 | 茶話
先日、拙ブログの蔡暁芳工房訪問の記事を読んで
問い合わせをくださった方がいた。
もう10年前に行ったきり訪れていないので、
お役に立てるようなお返事ができず申し訳なかったのだけれど、、。

久しぶりに暁芳窯の茶器を出してみた。
これはクコの実柄。

私が中国茶の勉強を始めた2000年ごろは
台湾茶器の最高峰といえば暁芳窯だった。
造形も磁器土も絵付けもほかの器との違いがはっきりしており、
茶も美味しく入る、との評判で、台湾茶ファンの憧れだった。

その後中国での中国茶ブームが始まると、
値段も上がり、品薄で手に入りにくくなった。
同時に日本でも茶器を制作する陶作家さんが増え、
個性や多様性を求めるユーザーの目はそちらへと向かっていく。

茶器は使い勝手の良さや好みから
一軍選手が自ずと決まっていくもので、
教室でも普段使いでもよく使うものは
茶棚の一番取りやすい場所に置かれている。

暁芳窯の茶器はそれよりも少し高いところから見下ろしていて、
初めてのお客さまやスペシャルな茶会の時などにお目見えする。

当時は清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入したが、
もうなかなか手に入らない今となってみれば
あの時買っておいて良かったのかもしれない。


飲んだお茶は祥泰茶業の東方美人2018年。
最後に馮さんご兄弟にお会いしたのはコロナ前の春だった。
そろそろまたお会いできるかな。
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茶話① 花見茶

2023-04-08 | 茶話
気がつけばこのブログを始めてから、
今年の11月で20年目に入ります。
記事数は1275件。
ここ数年は手軽なInstagramへの投稿が増えて、
ブログの記事はめっきり減りましたが、
そもそもブログを始めたきっかけは
お茶の感想や茶旅で経験したことを文章化して整理し、
アーカイブとして残すため。
今一度、自分の茶に対する想いを
ブログ20周年に向けて
素に立ち返り、反芻しようと思います。

* * * * *

土曜日の午後、不安定な空模様で、
予定していた隅田川散歩が中止に。
家でぼんやりと花見茶を決め込む。

我が家の庭にはハナミズキが一本。
巷の桜狂想曲が終わると自分の出番、とばかりに
白い花を咲かせる(実際は花ではなく、苞というものだそうだ)。
春先にはメジロも遊びに来るこのハナミズキ、新緑も紅葉も美しい。

ガラス茶器で淹れたのは定石野茶の萬秀2010年。
自然生態茶園で茶作りをされている高定石老師の包種茶だ。
購入当初は発酵高めではあるが、
個性の輪郭が今ひとつはっきりしなくて、
高老師のお茶にしてはインパクトに欠けると思って飲みきらずに置いていた。

12年を経て、どう変化しているのかと淹れてみる。
香りは飛んでしまっているが、味わいは優しく、透明感がある。
飲み始めると、ふわっと身体が温まってきた。

今年に入って、茶器と茶葉を整理している。
使わなくなった茶器と教室で既に使って余ってしまった茶葉は
生徒の皆さんにお譲りしているのだけれど、
こんな風に中途半端な量で残っている茶葉もいくつか見つかっている。
自分でゆるゆる飲む以外に
機会があれば、外部での茶会などで淹れたいと思う。
お茶と出会った背景などもお話しできれば。
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突然の別れ

2021-10-03 | 茶話
麗香茶課でも講師をお願いしたことのある、龍愁麗先生が急逝されました。
先日、都内某所の霊安室にてお別れをしてまいりました。

夫君は切り絵画家の故宮田雅之氏。
ご自身は中国芸術研究院名誉教授であり、
中国のみならず日本の美術にも造詣が深く、
日本の大学でも教鞭を取っていらっしゃいました。

個人的に2015年から2年ほど、先生の私塾にて
『茶の本』をテーマに勉強をさせていただきました。
5人グループで教えていただいたのですが、
とても厳しい先生でした。
今でも5人で集まると怒られた話で盛り上がります。

私も怒られてばかりで全然いい生徒ではありませんでしたが、
私の淹れた中国緑茶は美味しいと、
唯一褒めていただいて、嬉しかったのを思い出します。

ここ数年はお会いする機会もなく、
こんな形での再会に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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出版記念イベントを終えて

2018-10-13 | 茶話
9月21日に『中国茶のこころ 茶味的麁相』が発売され、
9月29日から10月8日まで東京での出版記念イベントを一気に駆け抜けて、今は抜け殻状態。

本の「一甲子の風格」の章に、老茶を十数煎飲んだ後、
その老茶は
「霓裳のような茶湯を脱いだ後、残ったのはしわしわの繊維になった皮であった」
という表現がある。
私の衣は霓裳ではなく、ピンクの中国通販で購入したひらひらの茶服であったが、
心と体はしわしわに干からびたような気がする。
今はただひたすら水を飲んでいる(夜になるとそこにアルコール分が加わったりするのだが)。

 水と言えば前の記事で書き忘れたことがある。
 今回の蔦屋書店とミナでの茶会では安藤雅信さんが足柄SAで汲んできてくださった富士山の湧き水を使った。
 蔦屋の茶席ではジャスミン茶の後に白湯を飲んでいただいた。
 甘くまろやかで身体に染み渡るようだった。


この本の翻訳編集チームに入れていただき、4年間携わってきたこと。
その4年の間に、李さんも含め、普通ならお付き合いできないような様々な分野での“才能あふれる”方たちに出会えたこと。
そしてイベントを通してたくさんのお客さまと交流ができたこと。

これから少しずつ咀嚼していきたいと思う。
こんな経験は本当に一生に一度きりかもしれない。



今、ひとつだけはっきりと言えることがある。

茶席の可能性は何と大きいことか。

蔦屋書店、ミナのプレスルームと茶会の会場が決まったとき、
「本屋さん?洋服屋さん?どんな茶席になるのかイメージが沸かない・・」と
最初は思っていた。
下見に行き、しつらえを考えている時も半信半疑だった。

しかし、当日会場に行き、設営をして茶席に座ってみると、何とも居心地がいい。
蔦屋では本に囲まれ、ミナでは秋冬物の洋服に囲まれ、いわば都会の真ん中での茶会。
これが妙に落ち着くのだ。

蔦屋はまるで図書館のような知的な雰囲気の中ですっきりとしたしつらえがマッチする。

ミナではショーケースにディスプレイされていたブローチをうらりんさんの提案で茶通置きにお借りしたり、
可愛いスツールが彩りを添えてくれたり、温かみのある茶席になっていたと思う。



李さんも本の中で書いている。
「茶席は暮らしの中に美学をもたらしてくれる。
 (中略)
日常の生活空間でも、茶の雰囲気を醸し出すことはできるはずだ。」

日本の中国茶・台湾茶ファンの皆さまがこの本を読みながら、たくさんの気付きやヒントを見つけてくださったとしたら本望である。

私も水分を補給して干からびた心と体が元に戻ったら、また引き続き日常の中でお茶のシーンを編んで行こうと思う。


この本に携わる機会を作ってくださった安藤雅信さん、翻訳編集チームの仲間である浦川園実さん、田中優伊さん、
そして出版に関わってくださったすべての方々に心から感謝しています。
謝謝!
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肩書

2018-09-09 | 茶話
広辞苑より
かた‐がき【肩書】
①氏名の右上に職名・居所などを書くこと。
②(名刺などで、氏名の右上に記すところから)地位・身分・称号などをいう。「―が付く」
③犯人・容疑者などの前科。


以前から書きたいと思っていて、なかなか書けなかったお題「肩書」。
名刺で氏名のそばに書いたり、HPなどのプロフィールで最初に書く「肩書」。

実は私自身、この「肩書」の記載にはずっと悩んでいて、
“中国茶インストラクター”を使っていたこともあるが、
今では“中国茶教室「Salon de Leecha 麗茶」主宰”のみのことが多い。

中国茶関係の方で多く使っているのは“茶藝師”資格ではないかと思う。
これは中国政府が認定する国家職業資格であるから問題はない。

他にも様々な団体が発行するディプロマがあり、それを書くことも問題はないと思う。

問題は、独自に編み出した言葉の肩書である。

世の中にはいろいろな「自称」の肩書の人々が存在する。
もちろん「自称」ではなく、その人のそれまでの業績に対し周りが自然と認定していくこともあるだろう。
プロとして活躍している人たちの肩書は当然その人の顔となる。

しかし、日本における中国茶の世界はまだまだ狭いし浅い。
確立された業界ではないだけに、自由度も高いし、それがまた魅力でもある。

自分の名刺を作る時、やはり肩書がほしい、と皆さん悩むのだろうと思う。
その中で恰好がつきやすいのが“◯◯家”という肩書だ。

中国茶家、中国茶事家、中国茶評論家、中国茶研究家、中国茶文化研究家・・・

私が目にしたことのある日本で中国茶に携わる方の“◯◯家”が付く肩書である。

日本にはたくさんの“◯◯家”が存在する。
料理研究家、格闘家、作家、評論家・・・既に「家」は市民権を得た言葉である。
日本の職業について“◯◯家”と名乗ることに、私は特に何も引っかかることはない。
ただ、中国茶に関係する場合、どうしても違和感を覚えるのである。

それが何故かということについては考えたこともなかったが、
ある中国語ネイティブの先生に中国茶文化について習う機会があり、
その先生が“◯◯家”と書いた友人の名刺を見て
「あなたは“家”と呼べる専門家なのですか?何か流派を成したのですか?」とお尋ねになった。

そこで自分の違和感の種がどこにあったのかが理解できた。
日本では全く問題ない言葉も、中国語では少し意味が変わってくるのである。
中国語学科で学んだことが自分の体にも染みついていたということだろうか。

中国では“家”という言葉は
(1) ある業種に従事する人や家族
(2) 専門家
(3) 学術流派
に使うとされる。
例えば「儒家」「墨家」などに象徴される言葉であり、
春秋戦国時代の「百家争鳴」という言葉を聞いたことのある人ならピンとくるだろう。

日本だけでこの肩書を使うなら特に問題はないと思うし、
中国語でのニュアンスの違いに気づかずに使う人がほとんどだろう。
中国でも新しい時代になって、言葉の使い方にも変化はあるかもしれない。
ただ、中国茶に従事するのであれば、中国での古くからの慣習にもある程度は目を向けるべきではないだろうか。

もちろん、“◯◯家”としての業績もあり、確固たる自信に裏付けされている方はこの限りではないが。
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年の瀬に・・・。

2017-12-29 | 茶話
2017年も終わろうとしています。
慌ただしい中、いろいろと反芻することも多く・・・。

今年は主宰する「Salon de Leecha 麗茶」の十周年の年でした。
4月には生徒さんによる記念茶会も開催しました。
一つの区切りとして、卒業していく生徒さんもいらっしゃいました。
そして新しく参加される方もいらっしゃいます。

中国茶・台湾茶の世界は中国の成長の速さと相まって、刻々と変化しています。
一昨年の北京、今年の広州の旅はそれを肌で感じる機会となりました。

私自身、お茶に対する思いは以前と少しも変わりませんが、
サロンへの取り組み方はある程度時代の変化に対応していかなくてはと考えています。

この先の10年を充実させるためにもサロンの内容も若干の再編を加えようかと思っています。
春にはサロンのHPも一部リニューアルする予定です。

まず手始めにInstagramでサロン専用のアカウントを作りました。

 リンクはこちらです→ @salondeleecha

ブログ「神融心酔」はこのまま続けていきますが、Instagramではお茶のある風景を日々綴って行こうと思います。

Instagramに連動するFacebookページも立ち上げましたので、
Instagramをフォローできない方はこちらからも写真を見ることができます。
内容はほとんど同じになります。
 
 Facebookページのリンクはこちらです→ 「Salon de Leecha 麗茶

フォローいただけましたら嬉しいです!よろしくお願いいたします。


ここからは独り言・・・

今年はお茶に取り組んでいる方の考えはいろいろだな、と実感する年でもありました。

お茶を飲みながらのひと時が好きな方、
お茶のある風景が好きな方、
お茶と一緒に食べるお菓子が好きな方、
お茶を淹れている自分が好きな方(笑)、
お茶を通しての出会いが好きな方、
お茶の持つ精神性を求めている方、、、

(もちろんお茶で生計をたてていらっしゃる方には深く敬意を表します!)

私は、、、とにかくお茶が好き。
美味しいお茶を皆さんとできるだけ共有して楽しみたい、
そんな思いを確認しながら年越しの準備をしています。


今年もお世話になりました。
どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。
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無題

2017-06-11 | 茶話
先日車を運転していてラジオを聴いていたら、小松美羽さんと言うアーティストがゲストだった。
彼女のちょっとスピリチュアルな話が面白くて印象的だった。

その数日後『花戦さ』と言う映画を観た。
映画には「れん」と言う絵師の娘が登場し、ダイナミックな蓮の絵を描くのだが、その制作を小松美羽さんが担当していた。
(トップ写真はその蓮の絵の複製。東京ガーデンテラス紀尾井町にて)

そして数日後、またラジオを聴いていたらゲストで出ていらして、今紀尾井町で展覧会があることを知った。
これは何かのご縁かとも思い、会場に足を運んでみた。



ものすごいパワーだった。
彼女は第三の眼を開いて創作すると言う。
何かに突き動かされるように筆が走る。
それは自己表現と言うよりは使命感のようなものらしい。

芸術は古来神に捧げるためのものだった。現代は少し作者の自我が先に走りすぎている、それを少し原点に戻したい、
と言うような彼女のコメントが展示の横に書かれていた。

小松美羽さんは見目麗しい。とても目立つ存在だ。
作品はアグレッシブでパワフル。
メッセージの受け取りは観賞する私たちに委ねられている。
ともすれば自我の爆発と取られるかもしれない。
だが彼女の視線は眼に見えないもの、そして宇宙へと向かっている。
彼女の創作における姿勢は自我から解放され、むしろ謙虚だ、と感じた。

映画『花戦さ』の佐藤浩市演じる利休にも、同じ印象を持った。
利休像というのは人それぞれと思うが、私にとっては今回の利休はとても受け止めやすかった。
茶の道は禅の修行の一部でもある。
茶の湯の前に自我を押し留め、ただ、人をもてなすことに集中する。
客はその空間に解放され、おおらかに包み込まれる。

両者に共通するのはまずはぶれない自我というものがあり、
そこから自由になり、外へと向かっていること。

この世界には眼に見えないことで大切なものがどんなに多いことか。
それを忘れず、謙虚に、自我に埋没することなく茶の道を歩めたらと思う。
「自分」を前面に出す風潮の強い昨今、そんなことをつらつらと考え巡らせている。
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ことば考 「型」

2017-02-26 | 茶話
昔、商社で働いていた頃、射出成型機を中国に輸出する仕事をしていた。
射出成型機とはプラスチック製品を加工する機械で、
材料の樹脂を熱をかけて溶かし、金型に射出し固めて形を作るもの。

いい製品を作るには成型機ももちろん大切なのだけれど、
肝心なのは金型である。
金型が正確でなければ、出来上がったプラスチックは製品価値がない。

プラスチックに限らず、型を必要とするものは多い。
茶にまつわる身近なところでは陶磁器や鉄器やお菓子などにも使われることがある。
そう、プーアル固形茶も型にはめて圧縮成形する。


能、狂言、歌舞伎には文字通り「型」がある。
「型通り」、型がなければ「型なし」、そして型があっての「型破り」なのだ。

「型」は様式として後世に受け継がれていく。
型があるからこそ伝えていけるのかもしれない。


伝統芸能も「型」を大切にする。
茶道も華道も基本の型を修得することがその道への第ー歩となる。


さて、中国茶はどうだろう。

自由度が高いと言われる中国茶の茶事や茶藝であるが、型がないわけではない。
唐の陸羽の時代から宋、元、明、清と王朝の変遷と共に茶の製法も変わり、飲み方も変化してきた。
その時代にはその時代の型があったはずである。

茶席では美しい所作がその場の雰囲気を高めてくれる。
それはお茶の味にも少なからず影響する。

ゆめゆめ「型」をあなどるなかれ。
但し、「型」にはまるなかれ。


※ 型

日本語ではケイ、かた、がた。
中国語ではxing2、シン。

意味は
1.形をつくりだすもとになるもの。
2.伝統や習慣として決まった形式。
3.武道・伝統芸能・スポーツなどで規範となる方式。
4.ものを類に分けた時、それぞれの類の特質をよく表したもの。
など。
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ことば考 「道」 

2017-02-04 | 茶話
儒教は完全な人間を目指すが
道教は完成点ではなくプロセスを大切にする。

茶文化についてご指導いただいているR先生のこの言葉が自分の中にすっと入ってきた。

「道」と名の付く習い事は多い。
それはその技術や藝を修得することが目的ではあるが、
その修行のプロセスが重要となる。

自分自身を見つめ、いかに生きるのかを考えることに通じる。
それが「道」である、と思う。



※ 道

日本語ではドウ、トウ、みち。
中国語ではdao4、タオ(ダオ)。

意味は大きく分ければ
1.通行するところ。
2.人がふみ行うべきこと。

中国語ではこれに加えて
3.道教でいうところの宇宙の原理。
4.言う、話す、思う。
という意味でも使われる。




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先人たちが残してくれたもの

2016-10-09 | 茶話
先日、とあるプライベート展覧会を観賞の後、
ご一緒したYさん、Hさんと野点茶会を予定していたが、
あいにくの雨模様でHさん宅に場所を移すことになった。

YさんもHさんもお菓子作りのセミプロである。
Yさんの金木犀の錦玉羹とHさんの奶黃月餅の競演。

お茶は私の担当で、先日急逝された蘭亭の藤原さんから譲っていただいた
今年のグリーニッシュシャンピンを持参。
身体の奥に沁みわたる蜜香であった。


 先人たちがこの世を去ってもその作品や遺品は残る。
 そして、それは存命時よりもいっそうの輝きを増して私たちに訴えかけてくる。

 
 藤原さんへ 美味しいお茶をありがとうございました。心より哀悼の意を表します。献杯。
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