北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

感情的か理性的か

2006-10-20 23:04:50 | Weblog
 連日気温が低い日が続きます。そろそろ里にも紅葉や黄葉が降りてきました。

【理性と感情】
 連日学校でのいじめ自殺が話題になっていて心が痛みます。

 いじめる側の心の未熟さはもちろん、いじめの現実を「把握できない、把握しない、把握しても対応出来ない学校」という絵姿が連日テレビで放映されて、世間のバッシングを受けています。

 挙げ句の果ては学校の上部機関である教育委員会までが適切な指導を怠ったという批判を浴びて、なにやら日本中の教育機関がぼろぼろになっているかのような印象を受けます。

 自殺という悲しい事態に至ると遺族の悲しみはひとかたならぬものがありますが、マスコミも含めて議論があまりに感情的になりすぎていて、冷静な議論ができず棘のある言葉ばかりが空中を飛び交って互いの心を切り刻んでいるようです。

 実に悲しむべき事態です。

    *   *   *   * 

 私たちは職業柄いろいろな人たちとお話をすることがあって、ときには仕事に対して反対をする人たちとも話をしなくてはなりません。そのようなときに仕事の先輩や人生の先達達から教えられたことは「決して感情的になってはいけない」ということです。

 感情は理屈ではないので、冷静な理由に基づく判断が出来ず、時には先に答えがあって理屈は後からつけてでも自分の主張を貫くという行動に出てしまうのです。

 感情そのままに迫り来る相手に対しては時と場所を変えたりすることも必要ですし、こちらはひたすら冷静な議論をするという姿勢を貫かなくてはならないのです。

 マスコミには本来中立的な立場で臨んで欲しいものですが、しばしば関係者の感情をそのまま代弁した姿勢も見受けられます。マスコミには事実を伝えるという使命もあるのでしょうが、感情的な姿をそのまま見せられると、いつも「単純な事実ではなく、冷静で理性的なアプローチをして欲しいものだなあ」と思います。

 感情を煽るだけだと、加害者と思われる人や団体に対する感情的な批判をさらに巻き起こします。何が起きたのかを冷静に知り、理性的な対応をすることこそ、同じ轍を踏まないような反省に繋がることです。

 感情による手続きを経ないような制裁は私刑(リンチ)と同様なのだと思う冷静さが必要です。もし過失や手落ち、犯罪になるような行為があったとしても、あくまでもその責任は社会の冷静な判断に委ねられるべきなのです。


 また社会が自殺に対してメッセージを発するとしたら、自殺をすることで加害者が悲嘆にくれる姿を見せると溜飲が下がる、というようなことではないと思うのです。
 社会のメッセージは、「いかなることがあってもやはり死んでは行けない」ということなのではありませんか。一人で悩まずに、先生や親・兄弟、友人、知人などなど、とにかく誰かに相談をし、時にはその場から逃げ出してでも死んでは行けないのだ、というものであるべきではないでしょうか。

 学校だけではなく、社会に生きる我々には多かれ少なかれストレスがあるものです。しかしそれでも死だけは選ぶまい、ということだけは自覚をしたいものですし、生きるということの大前提として教えておきたいものです。

 隣国で核実験が行われても我が国を始め世界の各国は、あくまでも感情的にならないように冷静に対応しています。

 感情と理性。このどちらによって今自分が行動しているのかを自立した視点で、常に客観的に見る視点を常に大事にしたいと思うのです。

  
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