「しがらみ」って、漢字で書くと「柵」、つまり「さく」のこと。
現代社会ではそれが転じて、「引き留め、まとわりつくもの」「じゃまをするもの」という意味でも使われます。
社会が大きく変化しないのは、既得権益をもっている人たちの反対により、社会が変えられないから、という見方があって、しばしば選挙が近づくと「しがらみの打破」を訴えて有権者の歓心を得ようとします。
既得権益を持っていない側から見ると、既得権益を打破して欲しいし、既得権益を持っている者からすると、その権益は守って欲しい。
仮に権益が守られないとわかっていても、激変をどう緩和するかと言う条件闘争にもちこもうとします。
しかし現実的な社会は、まさにそのしがらみをどのように調整して、変化を軟着陸させるかと言うところに高度な調整能力が求められるもの。
過去の経緯を一切無視して、エイヤッ!とやれるならこんなに楽なことはありませんし、それは何も考えなくても良いことと同じです。
そのしがらみからの脱却をした典型的な例が、民主党政権時代の事業仕分けでしょう。
ターゲットにされた制度や事業について、わずか20分程度の説明を官僚から受けて質疑応答、出席委員の多数決で存廃が決められました。そこに至る行政あるいは政治的な経緯は斟酌されないままに、判断が下された印象でした。
当時の事業仕分けのテレビ中継を見ていて、あの公開処刑とも言うべき政策判断の場は、しがらみからの脱却というよりは、不勉強なままに廃止の答えありきの出来レースではなかったか、という印象を強く持ったことを今でも覚えています。
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社会の変革が遅い、という批判もありますが、実際の国民の気持ちが付いて行かなければ、やはり社会は変わっていかないものです。
そのうえ、自分に都合の悪い改革は、改悪として批判する。しがらみから脱却されたら困るときは批判する側に回るのは、常に我々も利害関係者の中にいるということそのものだ、ということです。自分も何らかのしがらみの中にいるのです。
さてさて、少子高齢化、財政のひっ迫、外国の脅威からの自国の防衛、環境問題やエネルギー問題など、どれも単独で解決できるものではなく、全てが有機的に絡み合っている現代社会の諸問題の行く末のあるべき姿について、私たちはどう判断すればよいでしょうか。
感情的にならずに、冷静に、しかし真面目に、事に当たりたいと、私は思います。