北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

日本残酷物語4~保障なき社会 (長いです)

2012-07-19 23:11:01 | 本の感想


 私の好んで読む本を多く出してくれているのが平凡社の『平凡社ライブラリー』シリーズ。

 釧路では書店にもおいているところが少なくて、なかなか手に入らないのが残念なのですが、このシリーズは実に良い本を単行本サイズで復刻してくれます。

 今日ご紹介するのは、「日本残酷物語4~保障なき社会」。

 このシリーズは全五巻で、多くの執筆協力者の原稿を山本周五郎や宮本常一などが監修し、1959年に初版を発刊、後に改訂が加えられたものを底本とした再編集復刻版です。

 初めて「日本残酷物語」というタイトルを見た時は、刑罰史とか拷問史を連想したのですが、そうではなくて、明治維新や戦争などによる社会の変化や技術・文明の深化、あるいは天災や事故などによっていかに庶民が日常の変化を迫られ、結果として没落したり困窮したり、そして不遇の死を遂げたか、ということを書きつづった記録です。

 そしていかにわが祖先の時代というのは社会的な保障のない時代を生きねばならなかったのか、という悲しい記録を現代に伝える本でもあります。


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 過去の歴史を眺める史観には二通りあると言われます。

 それは「失われた前代の知恵に惹かれる民俗学(者)」という見方と、「過去への不遜な断罪者としての歴史研究(者)」という二つです。

 だとすると、この本に登場するのは悪辣で狡猾な日本人によって苦しめられ泣かされる日本人ばかりであり、過去を暗く捉えすぎているかも知れません。

 しかしこの物語一つ一つが埋もれた過去の記憶であり、ここから何を学ぶかはひとえに自分たちの感性にかかっていると言えるでしょう。

 
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 かつて長野県に住んでいた時に、長野市の北にある小布施を訪ねたことがありました。

 ここはかつて有力な豪商がいて、日本史上最高の絵師である葛飾北斎を迎えて存分に活躍させた町でもありました。

 このようなところがなぜこんなに栄えたのかを調べてみると、ここは千曲川を使った舟運の荷を陸揚げした物流の要衝だったのです。

 現代には現代なりの都市の盛衰がありますが、かつて舟運で栄えた町がその舟運が廃れたことで活力を失って行くということが多くありました。

 かつて栃木県庁のあった栃木県栃木市の前身である栃木町も、町内を流れる巴波川(うずまがわ)もその一つ。
 
 明治18年に、東北本線が栃木、壬生、宇都宮を通る計画と分かった時、地元は舟運の消滅を恐れた問屋衆を中心に大反対運動が起きました。

 また農家も、「振動でニワトリが卵を産まなくなる」とか、「農作物が枯れる」と言い、線路の予定となった地主なども一緒になって猛反対を展開したのです。

 結局、鉄道路線は町の東側を通ることとなり、反対運動は大いに成果を上げました。

 最初のうちは東京まで荷を運ぶのに、鉄道でも三日、舟運でも三日かかり大きな変化はもたらされなかったといいます。

 最後まで残った船積問屋が廃業したのは大正初年のことでした。その間、鉄道による運賃は安くなり、船で荷を運ぶ舟人足の賃金は下がり続け、とうとう船頭や舟人足は廃業、船大工も無用の仕事となりました。

 文明の利器の変化は無情にも自分たちの生活を否応なく変えてゆきますが、そこには何の保障もありません。

 多くの人たちがそうした変化についてゆくことができず、歴史のかなたに消えているのです。


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 そして私が最も注目したのは、天災、それも津波によって多くの被害を受けた人たちの部分です。

 ここには明治29年の津波とそれから37年後の昭和8年の津波の被害を受けた三陸地方の物語が掲載されています。

 記録によると明治29年には死者21,953人だったのが、昭和8年では死者・行方不明者が2,955と大きく減っています。

 これは明治29年津波を生き延びた古老たちの知恵が残っていたからだろう、と推測されます。逃げ延びる知恵はいつの世も人命を救います。



 逆に、岩手県唐丹村は明治29年当時、三百戸を有する大漁村だったものがこのときの津波で奥の庵寺を残して全戸流出、約1,500名以上の死者を出しほぼ壊滅状態となりました。

 わずかに生き残った村民たちを相手に、助かった古老が浜から600mほど奥の高台を提供して、村を移転させようと提案。

 自らも本宅を移して説得にあたったところ、最初の内は数名が移転の意思を示して、移るものが現れました。

 しかし、他の人々は「津波はそうそう来るものではない」として、浜を離れては毎日の生活が不便でならないといい、イカの豊漁が数年続いたころにはついに被害現地に復興してしまったと言います。

 やがて、一度奥へ移動した者たちまでが、遠くにいることをへんに感じて、全員が浜へ降りてしまいました。

 そして昭和8年に再びこの地を津波が襲った時には、全村百一戸が谷奥の一戸を残して全部流出。当時の村民620名に対して、死者・行方不明者は325名に達したのです。

 歴史が繰り返される中で、私たちは祖先の苦しみをどのように教訓とできるのでしょう。

 ほんの少し前の歴史を紐解いて、何の保障もなく辛かった祖先の時代を学ぶところから始めてはいかがでしょうか。
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