「故郷再生 行動する首長会議」の二日目。今日は分科会に分かれて各地の首長同紙によるワークショップが開かれました。
私もある分科会に参加して、各首長さんたちのお話を聞いていました。ここでのテーマは「蘇るふるさとイズムについて語る」というもの。なんだか難しいテーマです。
いろいろな話が出た中で印象的だったのは島根県のある町の町長さんの発言。
曰く、「派遣村にはショックを受けた。それは帰るべき故郷がない人たちがいるということ。昔は都会で食いっぱぐれれば故郷である農村に帰って暮らすという受け皿機能を農村が果たしていた。コメを送ってくれるのが田舎の故郷だと思って、よその土地にいる人たちにはコメを送っている」
また、「都会の自治体とも職員交流をしていろいろな情報を入れる努力をしていますが、都会はもう年寄りの住むところではない、と思い始めています。それは、図書館だとか公民館だとか、年寄りが時間を過ごすような施設はもう満員であふれかえっているからです。これ以上年寄りが増えれば、そんな施設を利用できないお年寄りもどんどん増えるでしょう。なにより病院で死ぬなどという贅沢はやりようがなくなります」とも。
すると別な首長が、「あなたのところでは団塊の世代が故郷の田舎に帰ってきますか?私のところでは、『奥さんが嫌がって帰ろうとしない』という人が多いと聞きます。そのために親や残した家の面倒を旦那さんが一人で来て見ているんです。これもまた問題だと思います」と発言。
「都会で便利で効率的な生活を心地よいと思ってしまった人たちは田舎の不便で効率の悪い暮らしをすることができないんだろうな」
※ ※ ※ ※ ※
私が思うに、都会が便利で効率的だというのは、各種サービスのスペシャリストがいて、物事を効率的にやってくれるので早いし値段も安くできるということなのでしょう。
そしてその裏返しが田舎のふるさと。ここでは人口が少なくてスペシャリストが食べてゆくだけの仕事がないためスペシャリストがい残ってくれません。
田舎ではそのために「お百姓」という、多能工的な生き方をせざるを得ませんでした。農作業の傍らで草鞋を編み、家も自分で直し、木を切り炭を焼き、道普請もする。何でも自分でできなければ誰もやってくれないのが田舎の暮らしです。
実はこれからの超高齢化社会を生きるヒントはこの辺りにありそうです。
都会でお年寄りが増えすぎて対処できないとすれば、その受け皿はやはり地方の故郷であり田舎にならざるを得ないのではないか。
ただしそれは姥捨て山ではありません。都会が要らないお年寄りを押し付けてくるのではなく、田舎のふるさとが受け入れられる人だけを受け入れるという、主体はふるさとの側でありふるさとが選んだ人を受け入れる。
そうすると、受け入れてもらうためには田舎で暮らせるような考え方やスキルをもっていないといけません。そのためのスキルもふるさととの人間関係性も、リタイアしてから獲得するのではなく、現役のある程度のところからもう準備を始めておかなくてはいけないのではないか。
そしてそうした人たちを受け入れることで都会から故郷の田舎に財政的な流れが造られるような運動も必要になるかもしれません。
これらのことは、全体として都市と田舎の故郷の問題に見えますが、個人の問題となると、自分も都会で余される前にいつでも受け入れてくれる故郷をしっかりと持って、いつでも帰れるようにしておく準備が必要になるかもしれないのです。
そうした運動体になるのが、今回集まった首長連合であるかもしれません。
故郷の田舎が堂々と都会と渡り合って折り合いをつける、そんな時代がもうすぐ来るかもしれません。都会の側にも、いやとか言いすむ自分自身に覚悟が要りそうです。
私もある分科会に参加して、各首長さんたちのお話を聞いていました。ここでのテーマは「蘇るふるさとイズムについて語る」というもの。なんだか難しいテーマです。
いろいろな話が出た中で印象的だったのは島根県のある町の町長さんの発言。
曰く、「派遣村にはショックを受けた。それは帰るべき故郷がない人たちがいるということ。昔は都会で食いっぱぐれれば故郷である農村に帰って暮らすという受け皿機能を農村が果たしていた。コメを送ってくれるのが田舎の故郷だと思って、よその土地にいる人たちにはコメを送っている」
また、「都会の自治体とも職員交流をしていろいろな情報を入れる努力をしていますが、都会はもう年寄りの住むところではない、と思い始めています。それは、図書館だとか公民館だとか、年寄りが時間を過ごすような施設はもう満員であふれかえっているからです。これ以上年寄りが増えれば、そんな施設を利用できないお年寄りもどんどん増えるでしょう。なにより病院で死ぬなどという贅沢はやりようがなくなります」とも。
すると別な首長が、「あなたのところでは団塊の世代が故郷の田舎に帰ってきますか?私のところでは、『奥さんが嫌がって帰ろうとしない』という人が多いと聞きます。そのために親や残した家の面倒を旦那さんが一人で来て見ているんです。これもまた問題だと思います」と発言。
「都会で便利で効率的な生活を心地よいと思ってしまった人たちは田舎の不便で効率の悪い暮らしをすることができないんだろうな」
※ ※ ※ ※ ※
私が思うに、都会が便利で効率的だというのは、各種サービスのスペシャリストがいて、物事を効率的にやってくれるので早いし値段も安くできるということなのでしょう。
そしてその裏返しが田舎のふるさと。ここでは人口が少なくてスペシャリストが食べてゆくだけの仕事がないためスペシャリストがい残ってくれません。
田舎ではそのために「お百姓」という、多能工的な生き方をせざるを得ませんでした。農作業の傍らで草鞋を編み、家も自分で直し、木を切り炭を焼き、道普請もする。何でも自分でできなければ誰もやってくれないのが田舎の暮らしです。
実はこれからの超高齢化社会を生きるヒントはこの辺りにありそうです。
都会でお年寄りが増えすぎて対処できないとすれば、その受け皿はやはり地方の故郷であり田舎にならざるを得ないのではないか。
ただしそれは姥捨て山ではありません。都会が要らないお年寄りを押し付けてくるのではなく、田舎のふるさとが受け入れられる人だけを受け入れるという、主体はふるさとの側でありふるさとが選んだ人を受け入れる。
そうすると、受け入れてもらうためには田舎で暮らせるような考え方やスキルをもっていないといけません。そのためのスキルもふるさととの人間関係性も、リタイアしてから獲得するのではなく、現役のある程度のところからもう準備を始めておかなくてはいけないのではないか。
そしてそうした人たちを受け入れることで都会から故郷の田舎に財政的な流れが造られるような運動も必要になるかもしれません。
これらのことは、全体として都市と田舎の故郷の問題に見えますが、個人の問題となると、自分も都会で余される前にいつでも受け入れてくれる故郷をしっかりと持って、いつでも帰れるようにしておく準備が必要になるかもしれないのです。
そうした運動体になるのが、今回集まった首長連合であるかもしれません。
故郷の田舎が堂々と都会と渡り合って折り合いをつける、そんな時代がもうすぐ来るかもしれません。都会の側にも、いやとか言いすむ自分自身に覚悟が要りそうです。