釧路市立博物館で開催された「ヤマの話を聞く会」に参加してきました。
これは「炭鉱(ヤマ)のくらし・マチの記憶~『炭鉱文化』集積継承・交流促進事業」の一環で、文化庁の「平成22年度美術館・歴史博物館活動基盤整備支援事業」に採択されたもの。
「ヤマの話を聞く会」の趣旨は、釧路市立博物館のホームページに、「太平洋炭砿から釧路コールマインへ引き継がれた日本唯一の坑内掘り炭鉱には、世界屈指の先進的機械化・保安技術があり、その確立までには多くの炭鉱マンたちの努力がありました。
また、雄別炭砿や尺別炭砿など、閉山していったヤマにも優れた技術と炭鉱マン、そして人々のくらしがありました。
釧路市立博物館では今年度より文化庁支援も得て、炭鉱マンの奮闘、ヤマのくらし、そして釧路の「技術資産」としていま一度見直すことも目的に、経験された方々にお話を伺う『ヤマの話を聞く会』を開始しました」とあります。
消えゆく炭鉱の記憶を、先人たちの話を聞き留めて記録に残すことで生き生きとした形にしておきたいというもので、釧路の歴史を博物材料とした地域素材に根差した立派な博物館事業だと思います。

【ヤマの話を聞く会】
今日は昭和40(1965)年に雄別炭鉱に入社した三輪紀元さんと松下泰夫さんというお二人に当時の思い出話を伺いながら、雄別炭鉱とは何だったのかを浮き彫りにしようという企画です。
雄別炭鉱はお二人が入社した五年後の昭和45(1970)年の2月末に突然閉山をしてしまいました。そのためお二人にとっては二十代前半のわずか5年間だけの思い出でしかないのですが、今でも生き生きと当時の記憶がよみがえるようです。
【三輪さんの思い出】
三輪さんは慶応大学をご卒業後、「なにか一番の技術を持っている企業は強い」という確信から縁のない雄別炭鉱に就職されました。多くの年上の工夫たちに交じった本社経営部の若者は早くからエリートとしての職場経験をさせられます。
事務職で本当は企業の多角化の仕事をしたかった若い三輪さんでしたが、「まずは企業の商品を知るように」ということで二ヶ月は坑内で採掘の経験をしたそう。
炭鉱での採掘は8時間勤務の三交代で行われたのですが、三輪さんは一番方と言って朝7時に入坑して午後3時に上がるチームでした。
「3時に仕事が終わってからその後が長かった。4時からの宴会も多かったが、3時45分の電車に乗ると釧路へ夕方に出て来られたもので、北大通りの人込みをよく味わったし、給料の2~3割は山下書店で本を買って売り上げに貢献した。夜12時半に寝るまではかなり勉強もできて、雄別の前半は自分の人生で最も勉強をした時期なのではないかと思います」
「また釧路にはキャバレーもあって、給料の相当をキャバレーやバーに投資した。後に山下書店やキャバレーが潰れたのは私が行かなくなったからではないか、と思っている(笑)」
※ ※ ※ ※ ※
【松下さんの思い出】
また松下さんの思い出は、ガス抜きの現場へはいったときのこと。初めてそんなところへ行ったのだが、炭鉱は工員だけで行くことはなく、かならず係員がついて行く。
「係員の松下がいるから行け」ということだったが、40人くらいいる行員に対して係員は4名で、私は中でも最年少の21歳。工員は私がガス抜き現場のことは知らないということを知っていたが、そのときは工員の協力で盛り立ててもらってなんとか勤め上げた。
また次には発破屋としての仕事をしたこと。発破の仕事をしていて恐ろしかったのは、ドラムカッターで石炭を掘るのだが、カッターで切った上部の石炭が落ちるはずなのが落ちそうで落ちないときに発破を仕掛けて爆破で落とすこと。今思えば、そのときにガラッと来たら死ぬという危険と隣り合わせの仕事だった。
※ ※ ※ ※ ※
【閉山というショック】
勤めて五年後の閉山話は昭和45年の正月明けに突然降ってわいたようにでてきたのそう。
実はこの前年44年の四月に系列の茂尻炭鉱でガス爆発事故が起き、その再建を図っていたのだがうまくいかず7月に閉山になっていました。この資金繰りに苦労していたことに加えてこの時期の通産省は、第四次石炭政策として閉山するなら有利な交付金を出すという政策を打ち出したために会社としては経営継続よりも閉山の道を選択したのでした。
三輪さんはその閉山処理業務に従事する中で再就職にあたふたする情けない上司やその一方で責任感にあふれる幹部の姿をつぶさに見たのだそう。その後の処世訓としても「責任感あるものを信用する」ということをよく学んだのだそう。
一方松下さんの方は閉山できっぱりと酒を止め、測量会社に再就職した後も今日まで一滴もお酒を飲んでいないのだそう。それだけショックであったわけでもあります。
【これからの夢計画】

【今掘らなくても将来への宝の地図に】
そんな二人が学芸員の石川さんを介して再び出会ったときに出たのが、「雄別炭鉱をもう一度掘りなおすとしたらどんな計画になるだろうか」というテーマ。
三輪さんの発想を測量会社にいた松下さんが具体的な計画として図面を起こし、いつかこれが実現しないものかと密かに温めているそう。
もちろん初期投資はかかるでしょうけれど、大いなるエネルギー危機が発生したとしたら、まだ6千万トン以上の埋蔵量が期待され、現実に掘っても3千万トンは期待できるであろう雄別炭鉱の技術的可能性をもっておくことは将来への宝の地図になるのかもしれません。
釧路市立博物館では12月に全国炭田交流企画展が開催されます。
地域の歴史の風景を大事にしたいものです。 http://bit.ly/idfAkS

【夢の計画、あくまでも夢ですが】
これは「炭鉱(ヤマ)のくらし・マチの記憶~『炭鉱文化』集積継承・交流促進事業」の一環で、文化庁の「平成22年度美術館・歴史博物館活動基盤整備支援事業」に採択されたもの。
「ヤマの話を聞く会」の趣旨は、釧路市立博物館のホームページに、「太平洋炭砿から釧路コールマインへ引き継がれた日本唯一の坑内掘り炭鉱には、世界屈指の先進的機械化・保安技術があり、その確立までには多くの炭鉱マンたちの努力がありました。
また、雄別炭砿や尺別炭砿など、閉山していったヤマにも優れた技術と炭鉱マン、そして人々のくらしがありました。
釧路市立博物館では今年度より文化庁支援も得て、炭鉱マンの奮闘、ヤマのくらし、そして釧路の「技術資産」としていま一度見直すことも目的に、経験された方々にお話を伺う『ヤマの話を聞く会』を開始しました」とあります。
消えゆく炭鉱の記憶を、先人たちの話を聞き留めて記録に残すことで生き生きとした形にしておきたいというもので、釧路の歴史を博物材料とした地域素材に根差した立派な博物館事業だと思います。

【ヤマの話を聞く会】
今日は昭和40(1965)年に雄別炭鉱に入社した三輪紀元さんと松下泰夫さんというお二人に当時の思い出話を伺いながら、雄別炭鉱とは何だったのかを浮き彫りにしようという企画です。
雄別炭鉱はお二人が入社した五年後の昭和45(1970)年の2月末に突然閉山をしてしまいました。そのためお二人にとっては二十代前半のわずか5年間だけの思い出でしかないのですが、今でも生き生きと当時の記憶がよみがえるようです。
【三輪さんの思い出】
三輪さんは慶応大学をご卒業後、「なにか一番の技術を持っている企業は強い」という確信から縁のない雄別炭鉱に就職されました。多くの年上の工夫たちに交じった本社経営部の若者は早くからエリートとしての職場経験をさせられます。
事務職で本当は企業の多角化の仕事をしたかった若い三輪さんでしたが、「まずは企業の商品を知るように」ということで二ヶ月は坑内で採掘の経験をしたそう。
炭鉱での採掘は8時間勤務の三交代で行われたのですが、三輪さんは一番方と言って朝7時に入坑して午後3時に上がるチームでした。
「3時に仕事が終わってからその後が長かった。4時からの宴会も多かったが、3時45分の電車に乗ると釧路へ夕方に出て来られたもので、北大通りの人込みをよく味わったし、給料の2~3割は山下書店で本を買って売り上げに貢献した。夜12時半に寝るまではかなり勉強もできて、雄別の前半は自分の人生で最も勉強をした時期なのではないかと思います」
「また釧路にはキャバレーもあって、給料の相当をキャバレーやバーに投資した。後に山下書店やキャバレーが潰れたのは私が行かなくなったからではないか、と思っている(笑)」
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【松下さんの思い出】
また松下さんの思い出は、ガス抜きの現場へはいったときのこと。初めてそんなところへ行ったのだが、炭鉱は工員だけで行くことはなく、かならず係員がついて行く。
「係員の松下がいるから行け」ということだったが、40人くらいいる行員に対して係員は4名で、私は中でも最年少の21歳。工員は私がガス抜き現場のことは知らないということを知っていたが、そのときは工員の協力で盛り立ててもらってなんとか勤め上げた。
また次には発破屋としての仕事をしたこと。発破の仕事をしていて恐ろしかったのは、ドラムカッターで石炭を掘るのだが、カッターで切った上部の石炭が落ちるはずなのが落ちそうで落ちないときに発破を仕掛けて爆破で落とすこと。今思えば、そのときにガラッと来たら死ぬという危険と隣り合わせの仕事だった。
※ ※ ※ ※ ※
【閉山というショック】
勤めて五年後の閉山話は昭和45年の正月明けに突然降ってわいたようにでてきたのそう。
実はこの前年44年の四月に系列の茂尻炭鉱でガス爆発事故が起き、その再建を図っていたのだがうまくいかず7月に閉山になっていました。この資金繰りに苦労していたことに加えてこの時期の通産省は、第四次石炭政策として閉山するなら有利な交付金を出すという政策を打ち出したために会社としては経営継続よりも閉山の道を選択したのでした。
三輪さんはその閉山処理業務に従事する中で再就職にあたふたする情けない上司やその一方で責任感にあふれる幹部の姿をつぶさに見たのだそう。その後の処世訓としても「責任感あるものを信用する」ということをよく学んだのだそう。
一方松下さんの方は閉山できっぱりと酒を止め、測量会社に再就職した後も今日まで一滴もお酒を飲んでいないのだそう。それだけショックであったわけでもあります。
【これからの夢計画】

【今掘らなくても将来への宝の地図に】
そんな二人が学芸員の石川さんを介して再び出会ったときに出たのが、「雄別炭鉱をもう一度掘りなおすとしたらどんな計画になるだろうか」というテーマ。
三輪さんの発想を測量会社にいた松下さんが具体的な計画として図面を起こし、いつかこれが実現しないものかと密かに温めているそう。
もちろん初期投資はかかるでしょうけれど、大いなるエネルギー危機が発生したとしたら、まだ6千万トン以上の埋蔵量が期待され、現実に掘っても3千万トンは期待できるであろう雄別炭鉱の技術的可能性をもっておくことは将来への宝の地図になるのかもしれません。
釧路市立博物館では12月に全国炭田交流企画展が開催されます。
地域の歴史の風景を大事にしたいものです。 http://bit.ly/idfAkS

【夢の計画、あくまでも夢ですが】