日生劇場、2023年9月27日17時45分。
ユダヤ人のターテ(石丸幹二)は娘の未来のために移民となり、ラトビアからニューヨークにやってきた。黒人のコールハウス・ウォーカー・Jr.(井上芳雄)は才能あふれるピアニストだが、恋人のサラ(遥海)は彼に愛想を尽かして、ふたりの間に生まれた赤ん坊をある家の庭に置き去りにしてしまう。その家は裕福な白人家庭の母親マザー(安蘭けい)の家だった…
脚本/テレンス・マクナリー、歌詞/リン・アレンズ、音楽/スティーヴン・フラハティ、翻訳/小田島恒志、訳詞/竜真知子、演出/藤田俊太郎。E・L・ドクトロウによる同名小説を原作にしたミュージカルで、1996年カナダ初演。98年のトニー賞受賞作。全二幕。
脚本家のテレンス・マクナリーは20年3月にコロナで亡くなったんですよね…『蜘蛛女のキス』『フル・モンティ』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』そして『アナスタシア』…私もいろいろ観させていただきました。合掌。
この作品に関しては私はなんの予備知識もなかったのですが、メンツがいいのでいそいそとチケットを取りました。が、なんでこんな後半日程を取ったんだろう…今月前半はいろいろ忙しかったんだっけなあ? たいてい平日夜を取るので、そこの予定がもう埋まっていたか、あまり上演回数がなかったのかな? でもとにかく初日以降、聞こえてくる評判が絶賛ばかりで、早く観たい!と気ばかり焦っていました。
ケチってA席にしたんですが、日生劇場は二階も観やすく、左右から出てくるごくシンプルなセットがそれでもとても効果的で(美術/松井るみ)で、役者たちのミザンスも堪能できて、コスパいいな!と感動しました。そりゃ役者は遠目に観ることになりますが、みんな姿形と声で誰が誰だかすぐわかりますし、私は宝塚歌劇以外ではオペラグラスは使わず表情の演技より全身の芝居を観る派なので、まったく問題ありませんでした。
高級住宅地に暮らす裕福な白人たちと、貧しいユダヤ系の移民たち、さらに差別されている黒人たち…のみっつのグループの1900年代の交錯を描く、オペラチックなミュージカルでした。ブロードウェイ版とはだいぶ違う演出になっているそうです。今回のメンツには多少の多様性がありましたが、毎度ほぼほぼ日本人、黄色人種でこうした作品を演じるのに生じがちな人種の見分けがつかない問題(しかも黒塗りなどはもうしない方がいいとされている…)は、各グループが特徴的な衣装(衣裳/前田文子)を着て演じ分ける、というアイディアで見事に乗り切られていました。裕福な白人たちは全身白を着て、ユダヤ系移民たちはグレーがかったくすんだ色目の服ばかり着て、黒人たちは赤や黄や青や緑の原色の服を着ていました。アンサンブルはバンバン着替えて人種を横断していました。こういうことは逆にブロードウェイや欧米諸国の座組ではできないことかもしれません。実に鮮やかで、わかりやすく、そしてもちろん役者はみんなただ衣装に頼るだけでなく、仕草や音楽に合わせて刻むリズムなどをすべて変えて、見事に演じ分けていました。素晴らしかったです。
オープニングで、みっつのグループはみっつに別れて佇んでいます。というか紗幕にそうした絵が描かれていて、その絵を割って役者たちが出てくるような作りになっていました。そもそもその前にターテが出てきてその絵を眺めるようなところから始めるので、これはのちに映画監督になった彼が作った映画の物語なのかもしれない、と思わせる構造になっています。そして主要人物たちがそれぞれ、自分のことを三人称で語り出します。だから余計に客観視というか、俯瞰的というか、あとから眺めた物語のようにも思える。素晴らしい歌唱で大曲が紡がれ、芝居は要所に入るだけで、非情に叙事詩的にも思える。でもドラマチックでないとか共感できないとかいうことはない。絶妙なバランスのもとに作られている作品だなと感じました。
そして最後に、ターテとマザーが再婚し、ターテの娘(この日は嘉村咲良)とマザーの息子(この日は大槻英翔)、そしてリトルコールハウス(この日は平山正剛)が5人家族になって、物語は終わります。プロローグでみっつに綺麗に別れていた役者たちは全員、ランダムに、白もグレーも原色もバラバラに混ざり合い一列になって並び、エピローグのラグタイムを合唱する…
舞台奥には大海原の映像がホリゾントいっぱいに広がります。それはアメリカにやってきた人たちが(我こそアメリカ人、みたいな顔している裕福な白人たちだって、たかだかこの3、400年前に移民としてこの大陸にやってきたにすぎないのですから!)渡ってきた海であり、これはザッツ・アメリカな物語なのでしょう。でも人種も含めてさまざまな差別がまだまだ解消されていない今、融和よりも分断が顕在化されがちな今日、この作品は極めて現代的であり今日的であり、今なお上演される意義があると感じられました。これはこの海、青く美しい水の星に生きる我々地球人すべての物語であり、滅びの瀬戸際で踏みとどまれるかどうかがかかっている今こそ観られるべき舞台なのだ、と私はダダ泣きしました。気持ちよくスタオベしちゃいました。
ラグタイム、という音楽は20年代にジャズが席巻するまで人気だったものだそうです。聞けば、ああ、こういうタイプの、こういうジャンルのアレね、と思います。それこそ宝塚歌劇のショーの一場面なんかでも観てきたようなシーンもあり、自然といろいろなものを吸収させられてきたのだな、と思います。あちこちで観てきた役者さんたちの新しい表現も観られたりして、個人的にもいろいろなものの融和が感じられた舞台でした。好き! 好み!!
マザーの息子にはエドガーという名があるようですが、正式にはリトルボーイという役名だったり、その夫はファーザー(川口竜也)だし弟はヤングブラザー(東啓介)、父はグランドファーザー(畠中洋)で、原作小説でもそうなのでしょうか? なんというか、わざと抽象的な扱いになっています。ターテ、というのも現地の言葉での「父」らしく、ファーストネームではない模様。コールハウスとサラにはちゃんとした名前がありますが、しかしコールハウスってのはファーストネームとしては変わっている気が…当時の黒人さんにはよくある名前だったのでしょうか?
まあ、ある種の、誰でもあるような人たちの物語…とされているようでもある一方で、実在の人物がちょいちょい出てくるのもおもしろい構成の作品でした。
驚いたのがエマ・ゴールドマンの土井ケイトで、何度か観ているしミュージカルでも観ていると思うのですが、メインどころではなかったし歌の記憶も全然なかったので、パンチのある歌唱に度肝を抜かれました。上手い! そして役もカッコよかった! ヤングブラザーが惚れちゃうのもわかる!
そのヤングブラザーの東啓介も何度か観てきて、タッパがありすぎるので役柄が限定されてしまうのでは、みたいな要らぬ心配をしていたのですが、こういうひょろっとした若者としての見せ方もあったか!とこれまた感動しました。彼がコールハウスに親近感を持っていくのはわかるんだけど…そうじゃない、そうじゃないだろうおまえ!と首根っこ引っつかんで揺さぶってやりたかったです。その後の半生の語りも…くうぅ。
お初の遥海が、あくまで彼女が素晴らしいのであって血だのなんだのと言ってはいけないのはわかっているのですがそれでも、日本人離れしたエモーショナルでソウルフルな歌声が素晴らしかったです。だからなんでも上手いヨシオが、さすがに比べると黒人さんには思えないかな、とは思いましたかね…ちょっとスマートすぎる、理知的すぎる気もして。でもコールハウスって人はベタに喧嘩っ早いアグレッシブなキャラとかではなくて、ものすごくクレバーで、世界を信じ理想を持っていた人なんだと思うので、これくらいでちょうどよかったのかも、とも思います。
たまたまかもしれませんが、カテコでホリゾントが外されて奥にいたオケが見えたときに、コールハウスの車がそこにあったのは、あえてなのかな、と私は思ったんですよね。特にライトを当てられていたわけではないけど、袖に片付けることもできたんじゃないのかな、なのにあえて見えるように置いておいたんだよね、と思ったので。
この車は、富とか名誉とか財産とかプライドといったものの象徴なのかもしれないけれど、単なる道具なのであり、総じて文明というものの象徴でもあるのではないかな、と私は考えたのです。火と言語と文字と道具と…そうしたものを使うことで、我々人間は野生動物とは違う生物になったのです。だからこうしたものを否定できない。
妬まれるんだから、悪目立ちするんだから、こんな車を買うべきではなかったのでは、乗り回したりするべきではなかったのでは…とコールハウスに言うことは、不当なことです。フォード(畠中洋の二役)は代金を支払う者には誰にでも車を売ったでしょう。代金が支払えて、その物が欲しいのであれば、誰でも買っていいのです。たとえ人種がなんであろうと。それが自由の国アメリカでしょう。たとえ建前であろうと、コールハウスはそういうことを信じていたのです。だから、あえて、2度目にあの消防団の「私有地」に行ったのです。彼は礼儀や信義といったものに重きを置いて応対した。悪いのは明らかにコンクリン(新川將人)たちの方なのです。この暴走、騒乱とその顛末…もう本当に絶望しましたよ……
『ムーラン・ルージュ!』で、愛、美、真実、自由のうちどれに重きを置くか、みたいな話で、私は真実か自由だな、とか考えたんですけれど、もっと言うと私は正義とか理想とかを世界に求めていて、そうしたものの実現のためには真実とか自由とかが大事だと考えているんだな、と改めて認識させられました。コールハウスは正当な対応を、公正な裁判を望みました。彼は正しい。彼のその後の行動はエスカレートしてしまって間違ったものだったかもしれないけれど、だからってあんなふうに扱ほれていいわけは決してない。でも今なおこうした不当な事件は日々、世界中で起きていて(50万筆越えの署名が受け取られないとかも、同様の事件です。不当です、正しいことじゃない。それが嫌)、それでなおさら絶望的な気持ちにさせられるのでした。百年以上前の話なのに、私たちは一歩も前進していないのではないか…と思わせられるからです。
なのでヨシオの優しさや知性は、やはりこの役に似合いだったのかな、とも思うのでした。
そして今は忘れ去られた、当時は時の人だったイヴリン・ネズビット(綺咲愛里)のあいーりがまた素晴らしかったんです! てかどっから出てるんだあの「ウィーーー!」って声は! いやぁ現役時代はまったく歌の人ではなく、特にトップになる前なんざ何度も椅子から転げ落ちそうになるほどのアレでしたが、人ってホント上手くなるもんなんですね!という、このメンツに入って遜色ない歌唱、そしてもちろん素晴らしい華と愛らしさ、感動しました。思うに娘役さんってホント無理して高いところを歌わされるので、それがつらくて本当より下手に聞こえがちで、退団して外部のミュージカルで普通のキーで歌うようになるとなんの問題もないっての(そして逆に歌上手と言われた男役が卒業後に苦労しているのを見ることもある…)、あるあるですよね…
石丸さんやトウコさんが上手いのはもちろん知ってる、うんうん、という信頼…トウコさんのキャラもいいバランスの在り方で、素敵だったなー。
マザーが帰らぬ過去を思って、「あの日は戻らない」みたいに歌う歌があるのですが、すぐに「あの日には戻らない」と続いたんですよね。「に」という助詞があるだけで意味が180度違ってしまう…過去を美しいものとして懐かしみ惜しみ嘆いているのではなく、苦しかったものとしてもう要らない、戻らない、ここから違う場所へ進むんだ、という意志の宣言になる、その鮮やかさにシビれました。訳詞者もプログラムで語っていました、わかりますわかります。
てかみんな上手くて安心で、イヤ本来こうあるべきなんだけれど、ホント素晴らしかったです。なんか、またすぐ観たい、わかって観てもおもしろかろう、と思えたな…てか素晴らしい楽曲に再度浸りたい、と思えました。
仕事が忙しい中に行ったにしては集中できて、良き観劇でした。ありがたい体験でした。
ユダヤ人のターテ(石丸幹二)は娘の未来のために移民となり、ラトビアからニューヨークにやってきた。黒人のコールハウス・ウォーカー・Jr.(井上芳雄)は才能あふれるピアニストだが、恋人のサラ(遥海)は彼に愛想を尽かして、ふたりの間に生まれた赤ん坊をある家の庭に置き去りにしてしまう。その家は裕福な白人家庭の母親マザー(安蘭けい)の家だった…
脚本/テレンス・マクナリー、歌詞/リン・アレンズ、音楽/スティーヴン・フラハティ、翻訳/小田島恒志、訳詞/竜真知子、演出/藤田俊太郎。E・L・ドクトロウによる同名小説を原作にしたミュージカルで、1996年カナダ初演。98年のトニー賞受賞作。全二幕。
脚本家のテレンス・マクナリーは20年3月にコロナで亡くなったんですよね…『蜘蛛女のキス』『フル・モンティ』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』そして『アナスタシア』…私もいろいろ観させていただきました。合掌。
この作品に関しては私はなんの予備知識もなかったのですが、メンツがいいのでいそいそとチケットを取りました。が、なんでこんな後半日程を取ったんだろう…今月前半はいろいろ忙しかったんだっけなあ? たいてい平日夜を取るので、そこの予定がもう埋まっていたか、あまり上演回数がなかったのかな? でもとにかく初日以降、聞こえてくる評判が絶賛ばかりで、早く観たい!と気ばかり焦っていました。
ケチってA席にしたんですが、日生劇場は二階も観やすく、左右から出てくるごくシンプルなセットがそれでもとても効果的で(美術/松井るみ)で、役者たちのミザンスも堪能できて、コスパいいな!と感動しました。そりゃ役者は遠目に観ることになりますが、みんな姿形と声で誰が誰だかすぐわかりますし、私は宝塚歌劇以外ではオペラグラスは使わず表情の演技より全身の芝居を観る派なので、まったく問題ありませんでした。
高級住宅地に暮らす裕福な白人たちと、貧しいユダヤ系の移民たち、さらに差別されている黒人たち…のみっつのグループの1900年代の交錯を描く、オペラチックなミュージカルでした。ブロードウェイ版とはだいぶ違う演出になっているそうです。今回のメンツには多少の多様性がありましたが、毎度ほぼほぼ日本人、黄色人種でこうした作品を演じるのに生じがちな人種の見分けがつかない問題(しかも黒塗りなどはもうしない方がいいとされている…)は、各グループが特徴的な衣装(衣裳/前田文子)を着て演じ分ける、というアイディアで見事に乗り切られていました。裕福な白人たちは全身白を着て、ユダヤ系移民たちはグレーがかったくすんだ色目の服ばかり着て、黒人たちは赤や黄や青や緑の原色の服を着ていました。アンサンブルはバンバン着替えて人種を横断していました。こういうことは逆にブロードウェイや欧米諸国の座組ではできないことかもしれません。実に鮮やかで、わかりやすく、そしてもちろん役者はみんなただ衣装に頼るだけでなく、仕草や音楽に合わせて刻むリズムなどをすべて変えて、見事に演じ分けていました。素晴らしかったです。
オープニングで、みっつのグループはみっつに別れて佇んでいます。というか紗幕にそうした絵が描かれていて、その絵を割って役者たちが出てくるような作りになっていました。そもそもその前にターテが出てきてその絵を眺めるようなところから始めるので、これはのちに映画監督になった彼が作った映画の物語なのかもしれない、と思わせる構造になっています。そして主要人物たちがそれぞれ、自分のことを三人称で語り出します。だから余計に客観視というか、俯瞰的というか、あとから眺めた物語のようにも思える。素晴らしい歌唱で大曲が紡がれ、芝居は要所に入るだけで、非情に叙事詩的にも思える。でもドラマチックでないとか共感できないとかいうことはない。絶妙なバランスのもとに作られている作品だなと感じました。
そして最後に、ターテとマザーが再婚し、ターテの娘(この日は嘉村咲良)とマザーの息子(この日は大槻英翔)、そしてリトルコールハウス(この日は平山正剛)が5人家族になって、物語は終わります。プロローグでみっつに綺麗に別れていた役者たちは全員、ランダムに、白もグレーも原色もバラバラに混ざり合い一列になって並び、エピローグのラグタイムを合唱する…
舞台奥には大海原の映像がホリゾントいっぱいに広がります。それはアメリカにやってきた人たちが(我こそアメリカ人、みたいな顔している裕福な白人たちだって、たかだかこの3、400年前に移民としてこの大陸にやってきたにすぎないのですから!)渡ってきた海であり、これはザッツ・アメリカな物語なのでしょう。でも人種も含めてさまざまな差別がまだまだ解消されていない今、融和よりも分断が顕在化されがちな今日、この作品は極めて現代的であり今日的であり、今なお上演される意義があると感じられました。これはこの海、青く美しい水の星に生きる我々地球人すべての物語であり、滅びの瀬戸際で踏みとどまれるかどうかがかかっている今こそ観られるべき舞台なのだ、と私はダダ泣きしました。気持ちよくスタオベしちゃいました。
ラグタイム、という音楽は20年代にジャズが席巻するまで人気だったものだそうです。聞けば、ああ、こういうタイプの、こういうジャンルのアレね、と思います。それこそ宝塚歌劇のショーの一場面なんかでも観てきたようなシーンもあり、自然といろいろなものを吸収させられてきたのだな、と思います。あちこちで観てきた役者さんたちの新しい表現も観られたりして、個人的にもいろいろなものの融和が感じられた舞台でした。好き! 好み!!
マザーの息子にはエドガーという名があるようですが、正式にはリトルボーイという役名だったり、その夫はファーザー(川口竜也)だし弟はヤングブラザー(東啓介)、父はグランドファーザー(畠中洋)で、原作小説でもそうなのでしょうか? なんというか、わざと抽象的な扱いになっています。ターテ、というのも現地の言葉での「父」らしく、ファーストネームではない模様。コールハウスとサラにはちゃんとした名前がありますが、しかしコールハウスってのはファーストネームとしては変わっている気が…当時の黒人さんにはよくある名前だったのでしょうか?
まあ、ある種の、誰でもあるような人たちの物語…とされているようでもある一方で、実在の人物がちょいちょい出てくるのもおもしろい構成の作品でした。
驚いたのがエマ・ゴールドマンの土井ケイトで、何度か観ているしミュージカルでも観ていると思うのですが、メインどころではなかったし歌の記憶も全然なかったので、パンチのある歌唱に度肝を抜かれました。上手い! そして役もカッコよかった! ヤングブラザーが惚れちゃうのもわかる!
そのヤングブラザーの東啓介も何度か観てきて、タッパがありすぎるので役柄が限定されてしまうのでは、みたいな要らぬ心配をしていたのですが、こういうひょろっとした若者としての見せ方もあったか!とこれまた感動しました。彼がコールハウスに親近感を持っていくのはわかるんだけど…そうじゃない、そうじゃないだろうおまえ!と首根っこ引っつかんで揺さぶってやりたかったです。その後の半生の語りも…くうぅ。
お初の遥海が、あくまで彼女が素晴らしいのであって血だのなんだのと言ってはいけないのはわかっているのですがそれでも、日本人離れしたエモーショナルでソウルフルな歌声が素晴らしかったです。だからなんでも上手いヨシオが、さすがに比べると黒人さんには思えないかな、とは思いましたかね…ちょっとスマートすぎる、理知的すぎる気もして。でもコールハウスって人はベタに喧嘩っ早いアグレッシブなキャラとかではなくて、ものすごくクレバーで、世界を信じ理想を持っていた人なんだと思うので、これくらいでちょうどよかったのかも、とも思います。
たまたまかもしれませんが、カテコでホリゾントが外されて奥にいたオケが見えたときに、コールハウスの車がそこにあったのは、あえてなのかな、と私は思ったんですよね。特にライトを当てられていたわけではないけど、袖に片付けることもできたんじゃないのかな、なのにあえて見えるように置いておいたんだよね、と思ったので。
この車は、富とか名誉とか財産とかプライドといったものの象徴なのかもしれないけれど、単なる道具なのであり、総じて文明というものの象徴でもあるのではないかな、と私は考えたのです。火と言語と文字と道具と…そうしたものを使うことで、我々人間は野生動物とは違う生物になったのです。だからこうしたものを否定できない。
妬まれるんだから、悪目立ちするんだから、こんな車を買うべきではなかったのでは、乗り回したりするべきではなかったのでは…とコールハウスに言うことは、不当なことです。フォード(畠中洋の二役)は代金を支払う者には誰にでも車を売ったでしょう。代金が支払えて、その物が欲しいのであれば、誰でも買っていいのです。たとえ人種がなんであろうと。それが自由の国アメリカでしょう。たとえ建前であろうと、コールハウスはそういうことを信じていたのです。だから、あえて、2度目にあの消防団の「私有地」に行ったのです。彼は礼儀や信義といったものに重きを置いて応対した。悪いのは明らかにコンクリン(新川將人)たちの方なのです。この暴走、騒乱とその顛末…もう本当に絶望しましたよ……
『ムーラン・ルージュ!』で、愛、美、真実、自由のうちどれに重きを置くか、みたいな話で、私は真実か自由だな、とか考えたんですけれど、もっと言うと私は正義とか理想とかを世界に求めていて、そうしたものの実現のためには真実とか自由とかが大事だと考えているんだな、と改めて認識させられました。コールハウスは正当な対応を、公正な裁判を望みました。彼は正しい。彼のその後の行動はエスカレートしてしまって間違ったものだったかもしれないけれど、だからってあんなふうに扱ほれていいわけは決してない。でも今なおこうした不当な事件は日々、世界中で起きていて(50万筆越えの署名が受け取られないとかも、同様の事件です。不当です、正しいことじゃない。それが嫌)、それでなおさら絶望的な気持ちにさせられるのでした。百年以上前の話なのに、私たちは一歩も前進していないのではないか…と思わせられるからです。
なのでヨシオの優しさや知性は、やはりこの役に似合いだったのかな、とも思うのでした。
そして今は忘れ去られた、当時は時の人だったイヴリン・ネズビット(綺咲愛里)のあいーりがまた素晴らしかったんです! てかどっから出てるんだあの「ウィーーー!」って声は! いやぁ現役時代はまったく歌の人ではなく、特にトップになる前なんざ何度も椅子から転げ落ちそうになるほどのアレでしたが、人ってホント上手くなるもんなんですね!という、このメンツに入って遜色ない歌唱、そしてもちろん素晴らしい華と愛らしさ、感動しました。思うに娘役さんってホント無理して高いところを歌わされるので、それがつらくて本当より下手に聞こえがちで、退団して外部のミュージカルで普通のキーで歌うようになるとなんの問題もないっての(そして逆に歌上手と言われた男役が卒業後に苦労しているのを見ることもある…)、あるあるですよね…
石丸さんやトウコさんが上手いのはもちろん知ってる、うんうん、という信頼…トウコさんのキャラもいいバランスの在り方で、素敵だったなー。
マザーが帰らぬ過去を思って、「あの日は戻らない」みたいに歌う歌があるのですが、すぐに「あの日には戻らない」と続いたんですよね。「に」という助詞があるだけで意味が180度違ってしまう…過去を美しいものとして懐かしみ惜しみ嘆いているのではなく、苦しかったものとしてもう要らない、戻らない、ここから違う場所へ進むんだ、という意志の宣言になる、その鮮やかさにシビれました。訳詞者もプログラムで語っていました、わかりますわかります。
てかみんな上手くて安心で、イヤ本来こうあるべきなんだけれど、ホント素晴らしかったです。なんか、またすぐ観たい、わかって観てもおもしろかろう、と思えたな…てか素晴らしい楽曲に再度浸りたい、と思えました。
仕事が忙しい中に行ったにしては集中できて、良き観劇でした。ありがたい体験でした。
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