宝塚大劇場、2009年6月18日ソワレ、19日マチネ。
19世紀末。ヨーロッパ随一の美貌を謳われた、オーストリア=ハンガリー帝国皇妃エリザベート(凪七瑠海)が、イタリア人アナーキスト、ルイジ・ルキーニ(龍真咲)に殺害された。煉獄の裁判所ではルキーニの尋問が続く。ルキーニは、エリザベートは死と恋仲だった、エリザベート自身が死を望んでいたと主張し、自分の行為を正当化する。そしてそれを証明するため、エリザベートと同時代に生きた人々を霊廟から呼び出す。最後にトート(瀬奈じゅん)-死-が現れ、エリザベートを愛していたと告白する…脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ、音楽/シルヴェスター・リーヴァイ、潤色・脚色/小池修一郎。1992年ウィーン初演、1996年宝塚版初演。宝塚では7公演目、月組では4年ぶり2度目の公演。
15年ぶりくらいに大劇場まで出かけてしまいました。浮かれた町、浮かれた「花のみち」、いいなあ、ここで暮らしたい…
それはともかく。
私は花組版(春野寿美礼と大鳥れい)と、ついこの間の雪組版(水夏希と白羽ゆり)以外は一応観ているのでした。なのでいろいろと思うところも…
まず、私はフランツ・ヨーゼフ(霧矢大夢)がけっこう好きなんですけれど、それは初演のユキ、星組版のノル、前の月組のガイチがよかったからなのかもしれません。いずれも優男で、優等生で、ヘタレで、そこがよかったのだった…
キリヤンはそつがなさすぎる、落ち着きすぎている。どんなにヤングに役作りしても、渋すぎる…
私はこの作品は死神と皇妃と皇帝の三角関係メロドラマ・ミュージカルだと思っているので、フランツが立ってこないと苦しいんだよなあ…
低音がそれはすばらしく出て、本当に達者なんですけれどね…キリヤン、どうするのだろう…やはりいっそエリザ役でもよかったのではなかろうか…
そのタイトルロールはオーディションだったようですが…最初の観劇では「私だけに」のあまりのよろけっぷりに「やめて~っ」と叫びそうになりましたよ…少女時代の台詞がとてもナチュラルで、そういうところは本来男役の役者っていいなと思ったのですが…格別歌が上手いってわけではないのでは? 二度目はだいぶしっかり歌えていたので、調子によるのかもしれないし、東京公演までにはまだまだ上達するかもしれませんが…
それもこれも今の月組にトッブ娘役が置かれていないからで、候補は皇太后ゾフィーに回った城咲あいとルドルフの少年時代を演じた羽桜しずく。
ゾフィーはとてもがんばっていたしそれっぽくできていただけに、悲しかったなあ…そしてルドルフの高音は子供のものというよりはあまりにただの娘役声すぎて、私には不満でした。ううーむ…今後の公演はどうするのでしょうか…
青年ルドルフはトリプルキャストで、立ち見も出るという明日海りおと遼河はるひを観ましたが、意外にアヒの方がよかったなあ。歌声がしっかりしていてかつリリカルで。長身すぎるのがまったく気になりませんでした。
ルキーニも健闘で、いい糧になったことでしょう。
というわけで、キャストをいろいろと見比べてしまうと、やはり出色なのがトート、ということになってしまうのでした…
歌に苦手意識があるというアサコですが、まったく問題なく、聴き惚れさせてくれました。
得意のダンスが発揮できるシーンが少ないのは痛恨でしたが、だからこそ「最後のダンス」での輝きといったらありませんでした!
フィナーレのダンスもすばらしかったです。
そして何より、演技が良かった。
本来、ニンとしては、アサコはもっと人がいいタイプのキャラクターが合うのではないでしょうか。そんな彼女が作った「クールで冷酷な死神」は、なんというか、とても紳士的で、ストイックなキャラクターになっていて、それがとても現代的だったと思いました。草食系男子、とまでは言わないけれど…
同伴した初見の知人が
「気の長い男やなあと思いましたよ」
といみじくも評したように、肉食系死神ががっとヒロインを襲ってしまったらもちろんそこで終わってしまうお話ではあるのですが、ヒロインのわがままをずっと見守ってくれる気の長さが愛の証、って感じがなんだかもうせつなくていじらしくて…たまりませんでした。
このトートの姿勢から、私にとって長いこと懸案だった、「死神と人間の女が恋をするということは、結局のところどういうことなのか」という疑問に、ある種の解答が得られたような気がしました。なので、こんな演出はどうかなーと思うところを述べたいと思います。
死神が人間の女に恋をし、我がものにしたいと思う。それは彼女を殺すということにほかなりませんが、トートは「おまえの命奪う代わりに生きたおまえに愛されたい」と思ってしまったので、彼女が生きていくのを見守り続けることになります。
一方で、人間の女が死神を愛する、死に自分を与えるということはすなわち、自殺するということにほかなりません。それはなかなかに許しがたい。人はどんなにつらくても苦しくても、生きていかなければならないはずだからです。
エリザベートは何度も死の幻を見ながらも、トートの誘惑を感じ続けながらも、「出てって」と言い続けます。トートはその言葉に従い、退く。
逆に心弱ったエリザベートが死に逃げ場を求めようとしても、トートは拒否する。それは自分が望んだ愛され方ではない、「私をまだ愛していない、死は逃げ場ではない!」からです。
そうして、ふたりはなかなか結ばれない。
そんな中、私はトートがルキーニにナイフを渡してしまう演出がずっと疑問でした。トートがエリザベートを殺そうとするなんて、ありえないはずだから。
かつて私は、トートの心情を誤解したルキーニが、勝手に功を焦ってナイフを盗み、エリザベートを殺しにいってしまう…というふうにした方がいいのではないか、と考えていました。
しかし、何度エリザベートに手をさしのべても、そのたびに拒否され、そのたびに傷つき、それでも傷心を抑えて引き下がり、その後も彼女を見守り続けたアサコのトートを観ていて、トートもまた悩み、迷っていたのだろうな、と思ってしまいました。
死神にとって、人間の女を愛してしまうこと、彼女を彼女が望むように生かしてあげたいと思ってしまうことなど、命を奪ってなんぼの死神のアイデンテイティを揺るがす大問題です。トートは、エリザベートへの愛と、自分の死神としての生きざま(?)との間で、激しく引き裂かれていたはずです。
しかもエリザベートは、ほとんどちらりとも振り向いてくれない。いつもいつも「出てって」としか言わない。彼女だって本当は俺を望んでいるはずだ、俺のことを愛してくれているはずだ、とずっと思ってきたけれど、それって本当なのかな…と、自信が揺らぐときもあったはずなのです。
折りしも煉獄の裁判の最終答弁で、トートはフランツに揶揄されます。
「エリザベートはあなたを愛してなんかいない。あなたはエリザベートに向き合うことを恐れている」
トートは思わず「ちがう!」と言い返し、そしてルキーニにナイフを与えたのでした。
この裁判、事件から百年後のこととなっているので、時系列を無視していますがそこはそれ。要するにトートは辛抱できなくなってしまったわけですね。その人間らしいことよ。
彼女は俺を愛してくれている、今度こそ死んでくれるはずだ…そう思って、ルキーニにナイフを渡してしまった。でもその次の瞬間からもう、彼は不安だったのではないでしょうかな。本当かな、また拒否されるのではないかな、いやそれよりルキーニが本当にエリザベートを殺してしまったら、俺は彼女の命を不当に奪ったことになる、そんなことになったらもう二度と絶対に彼女は俺を愛してくれなくなるはずだ、ああどうしよう…そんな後悔が彼を苛んだのではないでしょうか。
一方でエリザベートは、旅先を訪ねてくれた夫にも心を開くことができず、当てのない旅を続けています。どこかで誰かが、待っていてくれる気がするから。いつかたどり着くべきところが、どこかにある気がするから…
そうして、レマン湖のほとりで、ルキーニに襲われた。
そのとき彼女は、ルキーニの背後に彼を見ました。不安そうに、謝るように、恋い願うように、佇むトートの姿を。
彼女はこれまで、苦しさに耐えて耐えて、生き抜いてきました。だから、今こそ、死んであげられるのです。ルキーニに襲われてあげる。トートに迎えに来させてあげる。愛されてあげる。だって生き尽くしたから。もう、逃げるために死ぬのではないから。
だからラストシーンは、エリザベートがトートを迎えにいってもいいのかもしれません。まだエリザベートの愛を、彼女が自分をついに認め、許し、愛してくれたことを信じられないでいるトートを、エリザベートの方が迎え入れにいってあげてもいいと思うのです。
そして、「連れていって」と歌う。ふたりの愛は、やっと成就したのです。
生きて生きて、生き抜いた者にこそ、最後の最後に死に愛される資格がある、死を愛す資格ができる。愛を知った死もまた、ただ一方的に奪うのではなく、生かして、待って、最後にやっと愛する者を得る。そしてふたりで幸せになれる…これは、そんな物語なのではないでしょうか。
「最後にトートとエリザベートがくっつくのが唐突に感じる」
という意見が必ずあることに対する、これはひとつの答えと改善案ではないかと思うのですが、さて、どうかな…?
19世紀末。ヨーロッパ随一の美貌を謳われた、オーストリア=ハンガリー帝国皇妃エリザベート(凪七瑠海)が、イタリア人アナーキスト、ルイジ・ルキーニ(龍真咲)に殺害された。煉獄の裁判所ではルキーニの尋問が続く。ルキーニは、エリザベートは死と恋仲だった、エリザベート自身が死を望んでいたと主張し、自分の行為を正当化する。そしてそれを証明するため、エリザベートと同時代に生きた人々を霊廟から呼び出す。最後にトート(瀬奈じゅん)-死-が現れ、エリザベートを愛していたと告白する…脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ、音楽/シルヴェスター・リーヴァイ、潤色・脚色/小池修一郎。1992年ウィーン初演、1996年宝塚版初演。宝塚では7公演目、月組では4年ぶり2度目の公演。
15年ぶりくらいに大劇場まで出かけてしまいました。浮かれた町、浮かれた「花のみち」、いいなあ、ここで暮らしたい…
それはともかく。
私は花組版(春野寿美礼と大鳥れい)と、ついこの間の雪組版(水夏希と白羽ゆり)以外は一応観ているのでした。なのでいろいろと思うところも…
まず、私はフランツ・ヨーゼフ(霧矢大夢)がけっこう好きなんですけれど、それは初演のユキ、星組版のノル、前の月組のガイチがよかったからなのかもしれません。いずれも優男で、優等生で、ヘタレで、そこがよかったのだった…
キリヤンはそつがなさすぎる、落ち着きすぎている。どんなにヤングに役作りしても、渋すぎる…
私はこの作品は死神と皇妃と皇帝の三角関係メロドラマ・ミュージカルだと思っているので、フランツが立ってこないと苦しいんだよなあ…
低音がそれはすばらしく出て、本当に達者なんですけれどね…キリヤン、どうするのだろう…やはりいっそエリザ役でもよかったのではなかろうか…
そのタイトルロールはオーディションだったようですが…最初の観劇では「私だけに」のあまりのよろけっぷりに「やめて~っ」と叫びそうになりましたよ…少女時代の台詞がとてもナチュラルで、そういうところは本来男役の役者っていいなと思ったのですが…格別歌が上手いってわけではないのでは? 二度目はだいぶしっかり歌えていたので、調子によるのかもしれないし、東京公演までにはまだまだ上達するかもしれませんが…
それもこれも今の月組にトッブ娘役が置かれていないからで、候補は皇太后ゾフィーに回った城咲あいとルドルフの少年時代を演じた羽桜しずく。
ゾフィーはとてもがんばっていたしそれっぽくできていただけに、悲しかったなあ…そしてルドルフの高音は子供のものというよりはあまりにただの娘役声すぎて、私には不満でした。ううーむ…今後の公演はどうするのでしょうか…
青年ルドルフはトリプルキャストで、立ち見も出るという明日海りおと遼河はるひを観ましたが、意外にアヒの方がよかったなあ。歌声がしっかりしていてかつリリカルで。長身すぎるのがまったく気になりませんでした。
ルキーニも健闘で、いい糧になったことでしょう。
というわけで、キャストをいろいろと見比べてしまうと、やはり出色なのがトート、ということになってしまうのでした…
歌に苦手意識があるというアサコですが、まったく問題なく、聴き惚れさせてくれました。
得意のダンスが発揮できるシーンが少ないのは痛恨でしたが、だからこそ「最後のダンス」での輝きといったらありませんでした!
フィナーレのダンスもすばらしかったです。
そして何より、演技が良かった。
本来、ニンとしては、アサコはもっと人がいいタイプのキャラクターが合うのではないでしょうか。そんな彼女が作った「クールで冷酷な死神」は、なんというか、とても紳士的で、ストイックなキャラクターになっていて、それがとても現代的だったと思いました。草食系男子、とまでは言わないけれど…
同伴した初見の知人が
「気の長い男やなあと思いましたよ」
といみじくも評したように、肉食系死神ががっとヒロインを襲ってしまったらもちろんそこで終わってしまうお話ではあるのですが、ヒロインのわがままをずっと見守ってくれる気の長さが愛の証、って感じがなんだかもうせつなくていじらしくて…たまりませんでした。
このトートの姿勢から、私にとって長いこと懸案だった、「死神と人間の女が恋をするということは、結局のところどういうことなのか」という疑問に、ある種の解答が得られたような気がしました。なので、こんな演出はどうかなーと思うところを述べたいと思います。
死神が人間の女に恋をし、我がものにしたいと思う。それは彼女を殺すということにほかなりませんが、トートは「おまえの命奪う代わりに生きたおまえに愛されたい」と思ってしまったので、彼女が生きていくのを見守り続けることになります。
一方で、人間の女が死神を愛する、死に自分を与えるということはすなわち、自殺するということにほかなりません。それはなかなかに許しがたい。人はどんなにつらくても苦しくても、生きていかなければならないはずだからです。
エリザベートは何度も死の幻を見ながらも、トートの誘惑を感じ続けながらも、「出てって」と言い続けます。トートはその言葉に従い、退く。
逆に心弱ったエリザベートが死に逃げ場を求めようとしても、トートは拒否する。それは自分が望んだ愛され方ではない、「私をまだ愛していない、死は逃げ場ではない!」からです。
そうして、ふたりはなかなか結ばれない。
そんな中、私はトートがルキーニにナイフを渡してしまう演出がずっと疑問でした。トートがエリザベートを殺そうとするなんて、ありえないはずだから。
かつて私は、トートの心情を誤解したルキーニが、勝手に功を焦ってナイフを盗み、エリザベートを殺しにいってしまう…というふうにした方がいいのではないか、と考えていました。
しかし、何度エリザベートに手をさしのべても、そのたびに拒否され、そのたびに傷つき、それでも傷心を抑えて引き下がり、その後も彼女を見守り続けたアサコのトートを観ていて、トートもまた悩み、迷っていたのだろうな、と思ってしまいました。
死神にとって、人間の女を愛してしまうこと、彼女を彼女が望むように生かしてあげたいと思ってしまうことなど、命を奪ってなんぼの死神のアイデンテイティを揺るがす大問題です。トートは、エリザベートへの愛と、自分の死神としての生きざま(?)との間で、激しく引き裂かれていたはずです。
しかもエリザベートは、ほとんどちらりとも振り向いてくれない。いつもいつも「出てって」としか言わない。彼女だって本当は俺を望んでいるはずだ、俺のことを愛してくれているはずだ、とずっと思ってきたけれど、それって本当なのかな…と、自信が揺らぐときもあったはずなのです。
折りしも煉獄の裁判の最終答弁で、トートはフランツに揶揄されます。
「エリザベートはあなたを愛してなんかいない。あなたはエリザベートに向き合うことを恐れている」
トートは思わず「ちがう!」と言い返し、そしてルキーニにナイフを与えたのでした。
この裁判、事件から百年後のこととなっているので、時系列を無視していますがそこはそれ。要するにトートは辛抱できなくなってしまったわけですね。その人間らしいことよ。
彼女は俺を愛してくれている、今度こそ死んでくれるはずだ…そう思って、ルキーニにナイフを渡してしまった。でもその次の瞬間からもう、彼は不安だったのではないでしょうかな。本当かな、また拒否されるのではないかな、いやそれよりルキーニが本当にエリザベートを殺してしまったら、俺は彼女の命を不当に奪ったことになる、そんなことになったらもう二度と絶対に彼女は俺を愛してくれなくなるはずだ、ああどうしよう…そんな後悔が彼を苛んだのではないでしょうか。
一方でエリザベートは、旅先を訪ねてくれた夫にも心を開くことができず、当てのない旅を続けています。どこかで誰かが、待っていてくれる気がするから。いつかたどり着くべきところが、どこかにある気がするから…
そうして、レマン湖のほとりで、ルキーニに襲われた。
そのとき彼女は、ルキーニの背後に彼を見ました。不安そうに、謝るように、恋い願うように、佇むトートの姿を。
彼女はこれまで、苦しさに耐えて耐えて、生き抜いてきました。だから、今こそ、死んであげられるのです。ルキーニに襲われてあげる。トートに迎えに来させてあげる。愛されてあげる。だって生き尽くしたから。もう、逃げるために死ぬのではないから。
だからラストシーンは、エリザベートがトートを迎えにいってもいいのかもしれません。まだエリザベートの愛を、彼女が自分をついに認め、許し、愛してくれたことを信じられないでいるトートを、エリザベートの方が迎え入れにいってあげてもいいと思うのです。
そして、「連れていって」と歌う。ふたりの愛は、やっと成就したのです。
生きて生きて、生き抜いた者にこそ、最後の最後に死に愛される資格がある、死を愛す資格ができる。愛を知った死もまた、ただ一方的に奪うのではなく、生かして、待って、最後にやっと愛する者を得る。そしてふたりで幸せになれる…これは、そんな物語なのではないでしょうか。
「最後にトートとエリザベートがくっつくのが唐突に感じる」
という意見が必ずあることに対する、これはひとつの答えと改善案ではないかと思うのですが、さて、どうかな…?
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