毎度おなじみマンガPark「LaLa鉄板名作特集」全話無料公開で再読しました。
連載開始は1996年、完結は2005年なので、私はもう社会人になっていましたが、好きで読んでいて少なくとも前半はコミックスを買っていて、オチも覚えていたので人に借りたか雑誌で追っていたかしたんだと思います。まあまあ記憶があったのでツルツル数時間で読めました。
端正な絵柄、でもちょいちょい入るギャグ、というのが楽しく読みやすくて、当時絶大な人気があったんだろうし、優等生に裏の顔がある、という設定だけなら珍しくないものの、それがヒロインも相手役の男子も、となると目新しくて、おもしろかったんですよね。有馬くんみたいなめんどくさい優等生、私は大好物です。
ただ、友達たちのキャラクターやドラマの作り方、主人公たち周りの家族の屈託の作り方なんかは、いかにも当時の少女漫画というかザッツ女子的中二感というか、なんなら今なお同工異曲の作品が描かれているんだろうな、と感じました。子供にとって、というか人間にとって、自分がどこから生まれたのか、というか父親と母親が愛し合って生まれて、慈しみ育てられたのだと信じられることが、レーゾンデートルに直結する問題なんだと思うんですよね。そこが不確定だったり不安定だったりすると、そこに自分を立脚できない。何をやろうと自信が持てない、だからとにかく確認しようとしてしまう…おそらく、たとえ大人になっても「そんなの関係ないよ」と言える人はいない。それくらい大きな問題なんだと思います。
でも、みんながみんな幸せな結婚や家庭から生まれてこられるとは限らない。人にはいろんな事情がありうるし、生みの親でない人に育てられることその他いろいろなケースがありえるし、その方が結果的に幸せなことも全然ありえる。それでも、そう自分で確認し納得するまでのプロセスが人には絶対に必要で、そこをクリアしてからでないと、誰しも自分の人生に踏み出していけないのでしょう。
そして少女漫画でこの問題に向き合うと、結果的にそれはヒロインの異性愛に収束していくというか、一対の男女のロマンチック・ラブ・イデオロギーに結実していくんだなあ、と改めて思いました。この作品がたまたま、みんな幼なじみないし高校時代までに出会った人とカップルになっていってしまうから、というのもありますし、唯一相手がいなかった浅葉くんにすら長い年月をかけたのちにですがそれが用意されるからです。あってもよさそうに思えますがこの作品には意外にもBL要素がなく(まあ総司と怜司とかはあるかな…)、浅葉くんはただ「有馬が女だったら」と思うだけですが、本当は別に相手などいなくても、ひとりでも生きていける人はいて、それでも幸せになれるしそれでいいんだよ、というヴィジョンを示してもいい気もするのですが、それだとやはり少女漫画ではなくなったとしまう、という判断がなされたのでしょうね。
でもなら有馬の娘で、ってのはかなりイージーだし、固執しすぎだし世界が狭すぎるよ、ロマンチックがすぎるよ、と私は今はもう大人だから思うのでした。当時どう感じていたかは覚えていません。
浅葉が有馬と出会ったのは高校時代なんだから、同じだけの年月が経つ間にまた別の出会いが確率的にはあるはずなんですよね。でもそれはなかったことにされて、有馬の娘って…と、ちょっと絶句しちゃいます。もちろん浅葉の方にそんな気はなくて、娘の方だけが…という描き方はされているけれど、いやいや家族同然で育ってやっぱリアリティないやろ、とつっこみたくなるのです。でもそれはやはり野暮なのかなあ…あと、やっぱりあまりにあまりな年齢差の恋愛って、単純に不健全だと思うんですよね。大人っぽすぎる考え方なのでしょうか、でもたとえ少女漫画でも、というか子供向け、少女向けの漫画だからこそ、ちゃんとしたことをちゃんと描く義務が大人にはあるよね…理想とか希望とかを描くこととは別に、そういう責任もあるんだと思うのです。
でも、この闇は若さには親和性があるんですよ、それもすごくわかるんですよ…
その後の作品をあまり追っていない作家さんなのですが、今はどんなものを描いているのかな? ちょっと興味あります。
タイトルが良くて、各話のサブタイトルもベタ含めいかにもでツボでした。やはり一時代を築いた、と言うとちょっとオーバーかもしれませんが、長く連載されただけのことはある作品だったな、と思いました。
連載開始は1996年、完結は2005年なので、私はもう社会人になっていましたが、好きで読んでいて少なくとも前半はコミックスを買っていて、オチも覚えていたので人に借りたか雑誌で追っていたかしたんだと思います。まあまあ記憶があったのでツルツル数時間で読めました。
端正な絵柄、でもちょいちょい入るギャグ、というのが楽しく読みやすくて、当時絶大な人気があったんだろうし、優等生に裏の顔がある、という設定だけなら珍しくないものの、それがヒロインも相手役の男子も、となると目新しくて、おもしろかったんですよね。有馬くんみたいなめんどくさい優等生、私は大好物です。
ただ、友達たちのキャラクターやドラマの作り方、主人公たち周りの家族の屈託の作り方なんかは、いかにも当時の少女漫画というかザッツ女子的中二感というか、なんなら今なお同工異曲の作品が描かれているんだろうな、と感じました。子供にとって、というか人間にとって、自分がどこから生まれたのか、というか父親と母親が愛し合って生まれて、慈しみ育てられたのだと信じられることが、レーゾンデートルに直結する問題なんだと思うんですよね。そこが不確定だったり不安定だったりすると、そこに自分を立脚できない。何をやろうと自信が持てない、だからとにかく確認しようとしてしまう…おそらく、たとえ大人になっても「そんなの関係ないよ」と言える人はいない。それくらい大きな問題なんだと思います。
でも、みんながみんな幸せな結婚や家庭から生まれてこられるとは限らない。人にはいろんな事情がありうるし、生みの親でない人に育てられることその他いろいろなケースがありえるし、その方が結果的に幸せなことも全然ありえる。それでも、そう自分で確認し納得するまでのプロセスが人には絶対に必要で、そこをクリアしてからでないと、誰しも自分の人生に踏み出していけないのでしょう。
そして少女漫画でこの問題に向き合うと、結果的にそれはヒロインの異性愛に収束していくというか、一対の男女のロマンチック・ラブ・イデオロギーに結実していくんだなあ、と改めて思いました。この作品がたまたま、みんな幼なじみないし高校時代までに出会った人とカップルになっていってしまうから、というのもありますし、唯一相手がいなかった浅葉くんにすら長い年月をかけたのちにですがそれが用意されるからです。あってもよさそうに思えますがこの作品には意外にもBL要素がなく(まあ総司と怜司とかはあるかな…)、浅葉くんはただ「有馬が女だったら」と思うだけですが、本当は別に相手などいなくても、ひとりでも生きていける人はいて、それでも幸せになれるしそれでいいんだよ、というヴィジョンを示してもいい気もするのですが、それだとやはり少女漫画ではなくなったとしまう、という判断がなされたのでしょうね。
でもなら有馬の娘で、ってのはかなりイージーだし、固執しすぎだし世界が狭すぎるよ、ロマンチックがすぎるよ、と私は今はもう大人だから思うのでした。当時どう感じていたかは覚えていません。
浅葉が有馬と出会ったのは高校時代なんだから、同じだけの年月が経つ間にまた別の出会いが確率的にはあるはずなんですよね。でもそれはなかったことにされて、有馬の娘って…と、ちょっと絶句しちゃいます。もちろん浅葉の方にそんな気はなくて、娘の方だけが…という描き方はされているけれど、いやいや家族同然で育ってやっぱリアリティないやろ、とつっこみたくなるのです。でもそれはやはり野暮なのかなあ…あと、やっぱりあまりにあまりな年齢差の恋愛って、単純に不健全だと思うんですよね。大人っぽすぎる考え方なのでしょうか、でもたとえ少女漫画でも、というか子供向け、少女向けの漫画だからこそ、ちゃんとしたことをちゃんと描く義務が大人にはあるよね…理想とか希望とかを描くこととは別に、そういう責任もあるんだと思うのです。
でも、この闇は若さには親和性があるんですよ、それもすごくわかるんですよ…
その後の作品をあまり追っていない作家さんなのですが、今はどんなものを描いているのかな? ちょっと興味あります。
タイトルが良くて、各話のサブタイトルもベタ含めいかにもでツボでした。やはり一時代を築いた、と言うとちょっとオーバーかもしれませんが、長く連載されただけのことはある作品だったな、と思いました。
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