駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『Oslo』

2021年02月17日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2021年2月15日17時。

 ノルウェーの社会学者テリエ・ルー・ラーシェン(坂本昌行)は、妻でノルウェー外務省職員のモナ・ユール(安蘭けい)がエジプト・カイロに赴任するにあたり、中東各地を旅して回っていた。ある日、パレスチナ自治政府の行政地区であるガザにやってきたふたりは騒乱に遭遇し、イスラエルとパレスチナの少年ふたりがにらみ合って武器を手にしている光景を目の当たりにする。子供たちにこれ以上恐怖と憎しみを与えてはならない、とラーシェンは決意するが…
 作/J.T.ロジャース、翻訳/小田島恒志、小田島則子、演出/上村聡史。1993年にイスラエルのイツハク・ラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長がアメリカ・ホワイトハウスのローズ・ガーデンで握手を交わした「オスロ合意」に至る交渉の道程を描いた2017年トニー賞受賞作。2016年オフ・ブロードウェイ初演。全2幕。

 まず、ポスターやプログラムの一部にはすべて大文字でタイトル表記がなされているのですが、大文字と小文字の峻別はしていただきたい、と苦言を呈したいです。日本上演版の場合、カタカナ表記なのかスペル表記なのかすら揺れることがありますが、作品のタイトルというものをもっと厳密に考えていただきたいのです。敬意も愛着も感じられず、不愉快です。

 さて、それはともかくとして、なんとなくおもしろそう私好みっぽそうという嗅覚が働いたのと、退団後のトウコがわりと好きなので(現役時代はあまり興味が持てないスターさんでした)、それでもややスローに立ち上がり初日が開く直前くらいにチケットを買いました。結果、最後列のサブセンブロック席でしたが、もともとどこからも見やすい劇場ですし、遠目に観る分、二役を演じる役者さんに惑わされることなく芝居が観られてよかった気がしました。てか、声などで二役をやっていることがわかった俳優さんももちろんいましたが、明らかに違うキャラクターに見えましたし、あとでプログラムなどで確かめて「えっ、ココ同じ役者がやってたの!?」って役もありました。役者さんって本当にすごいですね。
 しかし役者はこういう舞台のオファーを何をもって受けるのでしょうね…イヤ一応事前に台本を読んで、おもしろいと思うから引き受けるものなのでしょうが。でもそれもなかなか難しかろうよ、とつい思ってしまうくらい、中東戦争云々ってどうしても遠くにしか考えられない題材だと思います。
 私も、イスラエルとパレスチナってどっちがどっちなんだっけ、というていたらくで、こういうときにあんちょこ代わりにしている高校時代の世界史の教科書を引っ張り出してきたのですが、オスロ合意は私が社会人2年目のときの出来事で、もちろん高校の教科書には載っていなかったのでした。でも、そうだユダヤ人がまず追い出されて、そこにイスラム教徒が住み始め、だけど現代になって戻ってきてイスラエルを建国しちゃったんだった、だからそれまでそこに住んでいて追い出されたイスラム教徒が反発して…というようなことは思い出した上で、あとは開演前にプログラムを買って登場人物紹介を読んでおいたくらいで観劇に臨みました。プログラムを読んでもキャラクターの名前は馴染みがなく覚えづらいものばかりでしたが、まあそこまで身構えなくても、なんとかついていけたかなという感じです。対立構造さえ抑えられていれば、そのふたつを結びつけようと主人公たちががんばる、というだけの物語ではあるので、ものすごく複雑で難解なことをやっているというわけではないからです。史実とフィクションを上手く織り交ぜた、舞台劇としてもよく仕上げられた作品だと思いました。
 ただだからって、政治ドラマではなく人間ドラマだった、というような感想をよく見かけましたが、それはどうかな、と思いましたね。交渉している人間たちはみんな祖国を背負って戦っていたので、やはりその政治性こそがこの作品の最大の見せ場なのではないだろうか、と私は感じたからです。でも私自身が政治なるものにそこまでピンときていないからか、私が泣いちゃったのはむしろ、エルサレムを巡るくだりでした。私はそれこそ無宗教で、その意味では宗教なるものにこそ縁遠いのかもしれませんが、でもその精神性みたいなものはすごくわかる気がしているし、それを大事にしている者にとってはそれこそ命と引き替えにできるほど大切で重要な問題なのだ、ということも理解できているつもりです。だからどちらも聖地エルサレムが欲しい、と言うのはすごくよくわかりましたし、そこに交渉の余地を残す結果に落ちついたことに心底安堵して、泣いちゃったのです。そこが相手のために譲歩できるなら、その他のことだってきっとできるはず、折り合えるはず…と思いました。あるいは逆で、ここは譲ってもあとのことではすべて対立し続けるのかもしれません。でもこの、私たちなんかが軽率に「要するに同じ神様なんでしょ?」とか言っちゃって下手したら殺されかねない、でもそうとしか思えない、ふたつの違う顔を持つ、ひとつだけれども別々の神様をそれぞれ唯一のものとして信じている一神教の人々が、「相手もまた神様を持っているのだ」ということに理解を示せる、というのはものすごく大きいことに思えるのです。それができるなら何故他のことに対してはこんなにもかたくななんだ、とか言っちゃえそうになるのは、私たちがそういう意味での神を持たない民族だからなのでしょうか。このあたりは実際根深い問題なのでしょう。でも、ことさらオーバーに描いている感じもなかっただけに、ここの最終攻防には私は本当にハラハラさせられましたし、なんとか落着したときに泣いちゃったのでした。
 そうしてなんとかかんとかホワイトハウスでのパフォーマンス(今また日本の政治では困った意味に使われたりしていますが)にこぎつけ、けれどそれでよかったよかったハッピーエンドの大団円、みたいな作品ではもちろんなく、現在に至るその後の惨憺たるありさまにもきちんと言及します。これまで3時間かけて舞台の上に息づき、私たち観客にもすっかり知り合いのおじさまのように思えていた政治家たちが、凶弾に倒れ暗殺され志なかばで散っていったことが語られ、スポットライトから外れていく。最後に残るのは主人公夫妻たちだけ。テリエは打ちのめされてがっくり膝をついています。それでも、あの合意が一度はなされたことには変わりはないし、今もパイプがないわけではなく、そこにはかすかな希望の光が灯っている。そして平和の象徴と言われる鳩らしき鳥がその光から羽ばたく音が響き、そして暗転、完。甘いかもしれないけれど、美しい終わり方でした。そうして未来は観客に託されたのだと思います。
 ユダヤ人観客の多いブロードウェイで上演された、アメリカ人作家の作品ではありますが、イスラエル寄りであるとかの印象は受けませんでした。むしろアメリカ外交官(チョウ・ヨンホ)のキャラとか、アメリカ人自身もアメリカ人をステロタイプでこう見ているのかな、とかおもしろかったです。
 それを日本で、日本人役者が(チョウ・ヨンホは在日韓国人役者さんですが)演じるのを観ている日本人観客である我々は、主人公夫妻同様、中立というと聞こえがいいけれど、要するにイスラエルともパレスチナともほとんど無関係、みたいな存在かと思います。でも、だからこそ主人公夫妻が立ち上がり奔走したように、私たちにもできることがあるのかもしれません。そんなことも考えさせられました。
 ただ、テリエに関しては、作家がそれこそ実在の人物であるテリエ自身に会ってこの作品の着想を得て、取材し調査し作品を書いているせいもあるのかもしれませんが、そしてこういうタイプの作品の主人公像としてわりとありがちなことではありますが、けっこう空っぽなんですよね。カイロでの経験が彼を和平交渉の道に進めた、というのはもちろんわかるんですけれど、でもこんな大変なばかりで一文の得にもならないことを人間がやり続けられるものだろうか、そもそもやり始められるものだろうか、と私はちょっと思ってしまったのです。もしかしたら作品の中にちゃんと描かれていたけれど私が読み取れなかっただけで、彼にはもっと動機みたいなものがあったのでしょうか。もしあまりなかったんだとしたら、たとえば彼は社会学者だそうですが、自説を立証するため、としてもよかったのかもしれません。どんなトラブルも当人同士が余人を交えずひとつずつ順番に語り合っていったら絶対に最後にはすべてが解決する、というような自説を、実際に実現させるためにこの交渉をやってみることにした、つまりそもそもは功名心のためだった、とかにした方が、私は納得しやすかった気がしたのです。ただ理想とか義憤のためだけでは人は動かないんじゃないのかなー、とか私はちょっと思ってしまったので。モナはわかるんですよ、夫が始めちゃったことだから手助けしているだけ、とか、そもそも外務省職員なんだからこういうことが仕事でもあるし、みたいなスタンスとかは、ね。でもテリエはなんかよくわからなかったし、人間としてキャラクターとしてそこまでチャーミングに見えなかったのですよ。坂本くんの愛嬌を持ってしても、です。だからそこにだけは引っかかったのですが、あとは、なんせ交渉のテーブルに着く二国の人間がどいつもこいつもみんな濃くて人間臭いので、とても親身になって楽しくおもしろく観られました。当初は超慇懃無礼なウリ・サヴィール役の福士誠治なんか、テレビドラマなんかで見るイメージと全然違っていて、うっかり惚れそうになっちゃいましたよ。上手いし素敵でした。坂本くんの後輩になる河井郁人も二役とも素晴らしく、感心しちゃいました。あと相島一之ホントなんでも上手いよね!
 そして実際、こうした交渉ごとは仲介役など立てず、あくまで当事者同士でがっつり話し合わせること、というのが効果的なんだろうなあ、と感心しました。仲介役相手にカッコつけるようなことをする必要がなくなるからか、本音も出やすいんだろうし、だから当然ガチンコ対立になることも多いんだろうけれど、かえって真意がわかって妥協点も見つけやすいんじゃないでしょうか。だから結果が、急がば回れみたいなもので、時間がかかっても強固なものになる。そういう理論はありそうだし、実際実践されるとそうなるのではないかしらん、と思いました。
 けれど食事とかブレイクタイムのときとかは、仲介役どころかホストの料理人夫妻(石田圭佑、那須佐代子)も警備員(チョウ・ヨンホ、駒井健介)も一緒になってお酒まで飲んじゃう。それでまた別の親しさとか、何かが生まれる。きわどいジョークも受け止められる。こういうことって本当にあるんじゃないかな、と思わせられました。
 彼らは我々は決して西洋なんかではないと言うのだけれど、そしてそれはそうだろうとは思うのだけれど、一方で私たちからしたら同じように「外国」で、要するにこういう、相手をきちんと尊重できて対等に誠意を持って議論できる文化、というものは日本には、特に日本の政治にはないんだろうなあ、それは東洋特有のというよりはやはり日本独自のダメな部分なのかもしれないなあ、とかも考えさせられて、悲しくなったりもしました。そういうふうに思い至れることを考えると、やはりこの作品を現代日本で上演する意義はあるのかもしれません。
 モナやトリルにマドンナやお母ちゃん役を求める感じとかは、現代アメリカ作品でもこんなんなんかーい!と気にならなくもないのですが、まあそこが主眼の作品ではないし、モナに関してはわかってやっているところもあるのかな、とこれは私がトウコさんのクレバーさを愛しすぎ過信しているのかもしれませんが思ったりしているので、流すことにします。
 ハコは気持ち大きすぎた気もしなくもないですが、あの空間がよかったのかもしれないし、もしかしたらこのご時勢で役者たちが距離を取れることはいいことなのかもしれないな、とも思いました。とにかく思っていたよりだいぶ演劇的な作品で、娯楽作ではありませんが、私は好きです。良き観劇でした。







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