駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇宙組『翼ある人びと』

2014年03月07日 | 観劇記/タイトルた行
 シアター・ドラマシティ、2014年2月9日ソワレ。
 日本青年館、2014年2月27日マチネ、28日マチネ、3月2日ソワレ(前楽)。

 ある秋の日、ハンブルクの貧民街でピアノ弾きをしているというみすぼらしい青年が、デュッセルドルフに住むシューマン一家を訪ねてくる。青年を迎えたのは作曲家のロベルト・シューマン(緒月遠麻)とその妻でピアニストのクララ(伶美うらら)。ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(澄輝さやと)の紹介状を携えたその青年は、夫妻に請われるまま自作のモチーフを弾いてみせる。青年は若き日のヨハネス・ブラームス(朝夏まなと)だった。彼の非凡な才能に気づいた夫妻は彼を自宅に住まわせて音楽を教え、世に出る手助けをしようとする…
 作・演出/上田久美子、作曲・編曲/斉藤恒芳、青木朝子。『月雲の皇子』でデビューした上田久美子の第二作。全2幕。

 何度観ても楽しい。飽きない。退屈することがない。この緊密に作られた美しい世界にずっと浸っていたい。そんなふうに思える作品、なかなかないです。
 やっぱりもう一押し色濃いものの方が私は好みです。この脚本そのままで、そういう演技、演出も観たかった。でも作者はこれが良いとして作っているのでしょう。
 それも含めて、堪能しました。地味かもしれないけれど上品で、私は好きです。
 ちなみにドラマシティ・マイ初日感想はこちら。大筋としては変わっていません。
 なので今回は舞台の進みに沿っての思うところと、最後に、やっぱり私が観たかったものについて語りたいと思います。

***

 プロローグはヨハネス・ブラームスのアパートから。遺品を片づけさせているルイーゼ(すみれ乃麗)と、ヨハネスの家政婦だったカタリーナ(花里まな)との会話から始まります。
 このカタリーナが素晴らしい。故人に敬愛の念はあっただろうけれど、それはそれとして遺産整理の現場をちゃっちゃと片す働き者、そのリアルさ。こっそり遺品のいくつかをくすねているちゃっかりさ。それがまたひどく高額な金目のもの、ではないのがいい。そこまでいくと卑しくなるからね。成功していたにもかかわらず質素に暮らしていたヨハネスの清貧さもうかがわせます。
 そしてこのカタリーナのちゃっかりさに客席から自然と笑いが沸くのがいい。くだらないギャグとか駄洒落とかで寒い笑いを取るのではなく、たくまざるユーモアで笑いが生まれるのがいいのです。こういう演出って特に日本人作家は下手だと思うので、感心しました。
 そんな「おまえなんかに」と言われてしまうようなカタリーナでさえ、ヨハネスの楽曲は愛していました。交響曲第何番とか、番号や数字なんか知らない。でもその曲を聞くと胸が痛み、亡くした人や愛した人を思い出す気がするのです。その感傷、秋の綺麗に晴れた日の空のような…
 そこからお話は過去に戻っていきます。「ヨハネス・ブラームスがあの家にやってきたのは、秋の初めだった。なんと遠い思い出だろう…!」

 コロスと踊るプロローグ、ヨハネスのまぁ様とロベルトのキタさん(役名としてはコロス男Aだけれど)の登場には拍手を入れられる作りになっているのに、クララのゆうりちゃん(コロス女A)には入れられないのが残念。最初に出るときには他のコロス女の先頭になっているだけなので入れづらいし、のちに三人で踊るときにはもう二度目の登場なので間抜けで入れづらいのです。もったいないので手を入れてもらえるとよかったな。ドラマシティでは照明の関係でもう少し入れやすそうだったけれどたまたま入っていないだけ…に見えたのですが。

 いつのまにかコロスが娼婦に変わり、場面はハンブルクの酒場へ。上手い展開です。
 ところでここは娼館ではなくて酒場なんですよね? プログラムではそうなっています。ということは娼婦がいるのはたまたまだと思われます。ヨーゼフはあくまでお酒を呑みにここに来ているのではないでしょうか。演奏会のあと、社交界のお歴々の相手などしたあと、ひとりで呑み直しに来た感じ?
「僕がまともでない女好きだったおかけで、きみの手が潰れないですんだ」
 と彼は言うけれど、正しくは「まともでない酒呑み」なのではないでしょうか。のちにルイーゼに言われる「あなたは女性のためならどこへでも行くのね」も、「酒場」から引っ張ってくる言葉にしてはちょっとヘンで、引っかかりました。最初クララのことかと思ってしまいましたもん。
 ともあれ酔客に絡まれたヨハネスを颯爽と救うヨーゼフのカッコいいこと! あっきーのヴァイオリンの弾き真似の素晴らしいこと!! どこぞのオスカルとは大違いでした。
 でもここの場面ラストの暗転カットオフは私はいただけないと思いました。「紹介状を書いてやるよ」とかなんとか言ってヨーゼフがヨハネスの肩でも抱いて下手にハケるとともに暗転、とかにすべきだったと思うのです。会話の途中で場面を切り替えるのは映像のやり方ですよね。

 続く場面はシューマン家の居間。ロベルトは音楽家としてかつての勢いはなく、一家はクララのピアニストとしての稼ぎで食べている模様なのがスムーズに語られます。
 でも子供たちは素直に育ち、母親の誕生日を祝うべく、ロベルトの久々の臨時収入で購入されたグランドピアノを熱心に飾り立てています。つましくも幸福な家庭、という情景がまざまざと立ちのぼります。
 クララは「一番欲しかったものよ」と喜ぶけれど、それはピアノのことというよりも、ロベルトの仕事が再び認められたこと、を差しているようにも思えました。クララは家事や子供の教育や演奏旅行に忙殺されているけれど、それを決して重荷に思っていたり不満に思っていたりすることはなく、夫と子供と音楽への愛に満足しているのでした。
 ここのベルタ(鈴奈沙也)の「すっげえ」で生まれる笑いがまた素晴らしい。ただベルタはここ以外に特に口が悪い台詞にはなっていないのはアレだったかな。だって敬語がちゃんと使えてるもんね。
 そして「すっげえ」汚いなりをしたヨハネスがヨーゼフの紹介状を持って現われ、ロベルトは彼に自作のモチーフを弾いてみるよう言います。
 それが「聞かせてくれたまえ」みたいな口調じゃなくて「弾いてください」というていねいな言い方なのがとても好き。落ち目になりかけていてもロベルトはすねたりひねたりしていない。変わらず紳士で優しく、おおらかな人格者なのです。
 ロベルトに「卑下してはいけない」と言われて、とまどいためらいつつもゆっくり鎧を脱いでいくようなヨハネスが痛々しくも愛しいです。水が砂にしみるように、ロベルトの理解にあふれた優しい言葉はヨハネスの心に深く染み入ったことでしょう。彼が求めていた場所はこんなところにあったのでした。
 別に私はBLが観たいわけではないけれど、ここにもうちょっとだけ妖しい火花が散ってもよかったと思わなくはないですね。師弟愛、なんて言葉では足りない何かの火がついてもよかった。
 そしてヨハネスが弾くピアノに魅入られたようになるクララ。そこには早くも何かが生まれてしまったのでしょう。そしてロベルトの「暁の歌」を弾くクララを挟んで、両隣に立つヨハネスとロベルト。
「さあ、始めよう」
 そして確かに何かが始められてしまったのでした…

 二週間後、デュッセルドルフのレストランでのクララの誕生パーティーに、遅れてまざるヨーゼフとルイーゼ。
 家族の一員としてテーブルについているヨハネスはあいかわらず無愛想で、ヨーゼフと再会しても目もきちんと合わせない始末。「紹介状のお礼は、いいからね!」と嘯くヨーゼフが可愛い(そしてルイーゼの椅子をちゃんと引いてあげる紳士っぷりが好き!)。
 ここでスピーチをするときにロベルトがスプーンでグラスを鳴らすのが好き。海外文学や映画によく出てくる、欧米の習慣ですよね。ヨハネスとルイーゼを引き合わせる紹介の順番とか、上田先生はこういう薀蓄にくわしいんだろうなあ。
 そしてホストのスピーチ以上に雄弁なのがヨハネスのピアノなのでした。彼は無愛想で口下手だけれど決して人の気持ちや場の空気が読めない人間ではなく、重くなった空気を払うために明るい舞曲を演奏してみせたりもします。
 プログラムには「クララの顔がなぜか時折曇る」とあるけれど、それは耳鳴りの発作に悩まされているロベルトを心配してのものにすぎないんですよね。それは当然すぎて私はつまらないと思う。本当は私としては、そういうものもひっくるめて、現実にほぼほぼ満足しているんだけれどでもほんのちょっとだけ不満がある、鬱屈がある、としてほしかった。そこをヨハネスに刺激されてしまったのだ…とした方がよかったと思うのです。
 まあでもそうなっていないのだからそれはそれで仕方ない。
 さてここで、ヨーゼフがルイーゼにダンスを誘う手を差し出すのに、ルイーゼがピアノを弾くヨハネスを見つめてしまっていて気づきもせず、ヨーゼフが肩をすくめて手を引っ込めるくだりが好き。そしてヨハネスが舞曲を演奏し出すとさらに「ダンスを!」と乗っかって場を盛り上げてあげるのが好き。
 ヨーゼフのヴァイオリンでみんなが踊り始め、ヨハネスもピアノを離れてたどたどしく踊り出します。まずは朗らかに笑うルイーゼと、パートナーチェンジしてクララとも。
 しつこいようですが私が考えるに、このとき踊るクララに久々に、娘時代の本当に自由気ままだった日々が蘇ったはずなんですよね。今の生活では失われた、満たされていない、何がしかの情熱に火がついたはずなのです。それが後のルイーゼへの「あなたも思い出したの」になる。それを思い出させてくれたのはヨハネスで、だから「♪贈り物はこの秋の歌」と歌う。そんな若々しい情熱、自由を一瞬でも取り戻せたから。
 でもそのあるべき情熱のきらめきが私にはこの舞台に、このクララに見えなかった。それが残念でした。
 一瞬またたいたはずの火はすぐに消えます。夜が更けて眠たくなった子供たちがぐずり、クララは母親としての自分を思い出さざるをえなくなったからです。
 けれどヨハネスが子供を家に送るのを引き受けます。「たまにはいいでしょう? 家のことを忘れて羽目をはずしたって。でないときっといい音楽もできませんよ」ヨハネスには、クララが家事や育児に忙殺されて音楽をまっとうできていないように見えるのでした。子供をおんぶして去るヨハネス。
 ルイーゼの「私はやっぱり音楽が好き」というのは、自分の才能のなさに悩んだり、才能のあるクララに嫉妬したりして音楽から離れ気味だった自分が、ヨハネスの輝きを見てまた情熱を取り戻した、という告白です。音楽への愛が再び目覚め、ヨハネスへの愛が生まれた、ということです。
 でもそこまでは言えずに立ち去るルイーゼを、ヨーゼフは追いかけるけれど追いつかない。ルイーゼのことは好きだけれど、一生を誓うなんてことは簡単にはできないから。そしてルイーゼに関しては自分が恋敵なのかもしれないけれど、そんなことよりヨハネスが戦うべき相手はもっと他にいる、と語ります。時代は偉大なるベートーヴェン亡きあと、次を担う音楽家を見極められないでいるのでした。
 そしてパリのサロンで、フランツ・リスト(愛月ひかる)が絢爛たるピアノ曲を披露している…
 愛ちゃん、押し出し出てきましたよねー。そしてリヒャルト・ワーグナー(春瀬央季)のかなこちゃんもだいぶ声が出来てきました。
 ところでここでヨーゼフが、音楽の古典派と親ドイツ派の対立の話から自由に関する話をカロリーネ・フォン・ヴィトゲンシュタイン(真みや涼子)としますが、「自由」の対極としてならカロリーネには「それはただの浮気」と言わせるべきだったのでは?
 ともあれ、ヨハネスとヨーゼフがモットーにしたという「自由」というモチーフがここに登場します。後述。

 一方、シューマン家の居間ではロベルトに師事したヨハネスがベートーヴェンの勉強をしています。ここでのクララの「ケチ」についてのユーモアがまたたまりません。「子供」に関する笑いもいい。
 でもこの連弾はなー、もうちょっと妖しい色気があってもよかったかなと思うんだけどなー。しつこくてすみません。
 ベートーヴェンの遺書について語るロベルトは、すでに自らの病と死の影に怯えていたのかもしれません。そしてここでヨハネスとロベルトが明るく歌うベートーヴェンに関する歌が、のちにヨハネスによって我がこととしてリプライズされるのでした…たまらん!
 クララとのレッスンを終えたルイーゼが出てくるものの、ヨハネスは相手をしません。彼は世間話とか社交辞令とかの「普通のおしゃべり」ができないのです。でもピアノでなら語れる。ここのロマンティックで少女漫画チックな展開がたまらん!
 クララはロベルトの夜会服をヨハネスのために仕立て直そうとします。「少しつづめないと駄目ね」つづめる…美しい言葉だなあ。
 ヨハネスはフランツたちのように社交界で媚を売るようなことはしたくないと言います。でもそういった場所で認められ、演奏会をしたり楽譜を出版してもらったりしないと、音楽家は食べてはいけないのです。現実を教え諭し大人としてヨハネスを子供扱いするクララと、反発するヨハネス。ヨハネスにはクララが音楽家である部分を日々の暮らしに犠牲にしているように見えるのでした。それが図星だと動揺するようなクララが、観たかったな…怒り、当惑し、あきらめるような芝居があってもよかったと思うのです。
 ヨハネスは夜会に出ることを承知するかわりに、クララの作曲した楽譜を見たがります。音楽には人柄が表れるものだから、クララの曲は素晴らしいにちがいないからです。「手遊び」…美しい言葉だなあ。
 この楽譜をめぐる少女漫画展開もたまらん! 無言の中でなされるのがたまらん!! 出色の場面ではなかったでしょうか。

 ライプツィヒ、ホーエンタール伯爵夫人(純矢ちとせ)の夜会。彼女は娘時代に恋人の音楽家と悲しい別れ方をしていて、今は音楽界の大パトロネスとして君臨しています。ベートーヴェンを継ぐ音楽家の誕生を待望している一方で、かつてクララをめぐって恋敵だったロベルトとフランツを鉢合わせさせてほくそ笑んでいるような人の悪いところがある女性です。
 そしてそれを受けて立つフランツの愛ちゃんの嫌ったらしさがまたたまらん。「失礼、袖が」とか言ってクララの手首をつかむフランツったら!(マティルデふうに)
 でもロベルトは耳鳴りの発作でフランツとの勝負の場に立てません。クララが代わりにロベルトの曲を演奏しますが、夜会の客は彼女の美貌を褒めそやすばかりでロベルトの音楽に耳を傾けません。「静かに聴け」と言うヨハネスに不埒な噂話を仕掛ける始末。
 クララの手を引いてその場を立ち去るヨハネス、その少女漫画展開たるや!
 その後のヨハネスとクララの口論の流れも素晴らしい。流れるピアノは華やかで猛々しいリストから甘く優しいショパンに変わり、ふたりはゆっくりと踊り始めます。
「どんなときも、世界を愛すれば世界もその人を愛するわ」というクララの言葉に、私は深淵を覗く者は深淵にまた覗かれる、みたいな怖ろしい言葉をちょっと思い起こしちゃいましたが、むしろ正反対で明るい希望に満ち溢れた言葉ですね。
 おこりんぼうさんの機嫌が直り、フランツは「妬けますね」と嘯き、ルイーゼはショックで立ち去ります。
 踊りながら、ヨハネスはクララの作曲を褒めるけれど、クララは今の生活に満足していてもう作曲はしないと言います。そんな時間がないし、音楽以上に価値のあるものがこの世にはあることをクララは知っていて、ヨハネスにはまだわからないのでした。でもここでも本当はクララは、少しは揺れるべきなんだと思うんだけれどなー。重ね重ねしつこくてすみません。
 その後の夜会の客の謝罪の台詞がまた素晴らしい。男の人ってきちんと謝らないからね。音楽界の重鎮らしいりんきらがヨハネスの演奏を褒める鷹揚な芝居も素晴らしい。
 いたずらっぽく笑い合うヨハネスとクララ。そしてヨハネスは「大丈夫じゃない」クララを気遣います。ここでもクララにそれだけの大丈夫じゃなさ、よろめきがもうちょっとだけあったらなー!
 そしてヨハネスのソロ。愛と希望を歌う美しい歌です。歌がもうちょっとだけ上手かったらなー!
「♪生きていこう、他の誰かのために。忘れないで、いつも近くにいるから」愛しているから、じゃないんですよ! キャー!!

 ヨハネスの楽譜が出版され、彼は新進音楽家として認められていきます。
 ここでユリウス・グリム(美月悠)が出版の口利きをした伯爵夫人のことを「食えないババア」とか言っちゃうんだけれど、嫌みじゃないのが素晴らしい。宝塚歌劇の観客は女性が大半なのでこういう言葉には神経を使うべきですが、作者が女性だとわかっていることもあるし、ユリウスのからっとしていてのんきなキャラクターで救われているんですよね。
 そしてユリウスの「きみは寂しいね」も素晴らしい。ヨーゼフは自由恋愛主義者を標榜しているというかなんというか、要するに腰の定まらない浮気者で、ルイーゼのことはかまっているけれど本気で向き合って踏み込んだ関係になろうとしていません。
 それがあまり情けない方向に見えないよう、例えばルイーゼが貴族のお嬢さんで結局は身分違いだから、とかなんとかするといいのではなかろうか、と書きましたが、のちに考えが変わりました。
 ヨーゼフはルイーゼに本気だから踏み込まないのではない、ルイーゼが純真すぎるから踏み込まないのです。彼女は「守れない言葉」なんか言われたら信じちゃって突っ走るタイプだからです。のちに人を傷つけ、結果自分が傷ついたように。ヨーゼフにはそれがわかっていたから、一線を引いていたのではないでしょうか。ま、個人的なあっきー幻想ですけれどね!
 それにしても、「彼女には守れない言葉は言えない」と言うヨーゼフに対してこんなことが言えるユリウスのラブ・ライフは、どんなものなのでしょうね?

 ルイーゼはヨハネスとクララの仲に嫉妬して苦しみ、故郷で縁談が持ち上がって悩み、ついロベルトを傷つけるような真似をしてしまいます。
 でもロベルトは簡単にふたりの関係を疑うとか、そういうことではないのがまた素晴らしい。彼はただ自分の不調に怯えていて、子供が母親を頼るようにクララの支えを必要としているのでしょう。ここでクララにキスしたのはヨハネスに見せつけるためなどではなかったのではないでしょうか。欧米のカップルは周りに人がいてもスキンシップを取るものです。
 でもそういう嫌らしい匂いがする場面になっても私はよかったですけれどね。やっぱりちょっと綺麗すぎる気がしたんですよねー…
 一方で、ヨハネスがその場を立ち去ったのは単なる礼儀作法のためだけではなかったのでした。それをベートーヴェン?(凛城きら)に言い当てられます。「目をそらしたな」クララを見ていたければ見ればいい、自由にやればいい、なのにそうしないヨハネスをベートーヴェン?は責め苛みます。
 ヨハネスの前に現れる幻想のクララは確かに妖しく芳しく、誘うように絡みついてきます…

 ロベルトは躁状態になってしまい(キタさんが素晴らしい!)、ヨーゼフは彼の新しいヴァイオリン協奏曲をとても発表できません。それはロベルトの名声を傷つける出来でしかなかったからです。

 そして早春の謝肉祭。クライマックスにカーニヴァルをぶつけるカタストロフ演出自体はよくありますが、台詞の流れといい、これまた出色の場面です。
 ヨハネスはクララのために何かしたいと願い、クララはルイーゼの話を持ち出すします。「そんなくだらない世間話、どうだっていいんだ」「頼みたいのはそれだけ」
 本当に本当にしつこいですが、このときのクララに、自分がヨハネスに傾いていることへの罪悪感がちょっとでも見えたりしたらまた違うと思うのですよ。それがロベルトの病気を招いているのではないかという恐怖と後悔、自分を揺らせたヨハネスへの怒り。だからヨハネスとルイーゼをくっつけて自分から遠ざけようとするんでしょう? そういう台詞だと思うんだけどなあ、その裏に流れているはずの感情の表現が淡いんだよなあ。もっとドロドロしていいんだと思うんですよわりとマジで!
 歌のあとの場面のリフレインと言うか会話がプレイバックするのが素晴らしい。
 ベートーヴェン?がヨハネスを責め立て駆り立て(ナウオンでのあっきーの名言「りんきら、もうやめてあげて!」)、ヨハネスはついに恐れを捨てて叫ぶように告白してしまいます。「嫌だ! 何故だか聞かないんですか、あなたを愛しているからだ!」
 険しい顔をして振り返るクララ。一度口にしてしまった言葉は二度と戻せない、消えてなくならない。なのに何故言うの、言ってしまったの、聞きたくなかった。聞かなければ知らないふりができたのに。今までだってそうしてきたのに。あなたの気持ちなんかとっくにわかっていた、自分の気持ちだってちゃんとわかっている、でもそれは口に出してはいけないことのはずでしょう? 許されざるもののはずでしょう? なのに何故あなたは…
 そんな悲痛な表情。
 そして黒い片翼の悪魔みたいなベートーヴェン?がロベルトを橋の上へ誘い、ロベルトが川に身を投げる水音が響いて、第Ⅰ幕が終わる…

 第Ⅱ幕。
 伯爵夫人の語りで、ロベルトが一命を取り留めたこと、入院したことが語られます。患者を動揺させないために不貞の噂があるクララの面会は許されず、かさむ入院費を稼ぐためにクララは演奏旅行に頻繁に出ざるをえなくなります。
 師のいない家にヨハネスが住むのは世間体も悪い。クララはヨハネスに別に家を借りるように言います。でもヨハネスはクララのそばを離れません。現実問題として、ベルタを解雇せざるをえないし、クララの留守に子守をする人間が必要なのでした。
「この前言った言葉は二度と口にしません。だから頼むから僕をこの家においてください。ロベルトが帰ってくるまで」
 ヨハネスは自分のクララへの想いを封印すると誓います。でも再度ここでその話を持ち出すことで、妙に駄目押ししてしまってもいるのでした。その苦さ、苦しさからふたりは目を背け続けます。

 一方ルイーゼは、ロベルトを追い詰めたのは自分だと自分を責めています。ヨハネスとクララの仲を告げ口するようなことをしたから。自分で自分が怖くなって、それで縁談を承知した。自分自身から逃げるために。
 ここのヨーゼフのなんと優しくなんと寂しいことでしょう。結婚を引き止めたりなどしないのです。「本当に結婚するなら、その人のことをちゃんと考えるんだ。誰かを傷つけたら、きみがまた傷つくよ」
 彼が自由で、ルイーゼのことを軽口で口説いたりしても決して守れない言葉を言わないのは、彼もまたかつて傷つき傷つけられたことがあるからかもしれません。だから常に一線を引き、本気にならないことにして、自由でいることにし、同時に孤独であることを引き受けているのではないでしょうか。
 でも史実では結婚したんだよネ!(笑)しかも離婚したんだよネ! そのとき奥さんを庇ったヨハネスと喧嘩したらしいネ! どんなドラマがあったのよワクテカだけどそれはまた別の話。


言えぬ言葉 風に紛れ消える 雪のように 伝えられぬ想いは かすかな痛み
言わぬ言葉 凍りついて刺さる 胸の奥に 許されざる想いは 怖ろしい罪なのか?
選んだ道どこへ行くの 想い置き去りにして 伝えられぬ言葉は いつか消えるの?
消せぬ言葉 胸をよぎり知らず心包む 許されざる言葉は どうして消えないのか?

 ベートーヴェン?はヨハネスを焚きつけます。「今こそ彼女の心をつかまなくては! 死んでしまってからでは、死者の思い出には勝てないぞ!」
 自由とはなんなのでしょう。心のままに行動し、周りを傷つけること? 己を貫くこと? そうしないのは臆病なこと? でもヨハネスにはできないのでした。
 ヨハネスはベートーヴェン?を振り切り、クララの留守に子供たちの面倒を見、クララ宛ての手紙を熱心に綴ります。
 体調がいいときにはロベルトと面会もでき、あたたかく心静かなひとときを持ちもします。けれど音楽に向き合うことはないのでした。

 ヨハネスは伏せていましたが、クララはロベルトの病状を知ってしまいます。「どうすればいいの? 助けて!」
 かつてヨハネスはクララに自分を頼ってくれと言いました。クララは大丈夫だと取り合いませんでした。今になってやっと頼ってもらえたときには、ヨハネスに何ができたでしょう?
 そしてヨーゼフたちはまったく音楽の仕事をしていないヨハネスを案じています。事情はわかっている、けれどヨハネスの才能が無駄になるのも耐え難い。このくだりの台詞が胸に刺さる人も多かったことでしょう。
 でもヨハネスは聞き入れません。そしてクララは演奏旅行に明け暮れます。
 社交界ではあいかわらずの噂話が密やかに囁かれています。「事実的な関係? そんなものたいした問題ではないわ、心のそれに比べたら。事実的な関係だけが不貞なのではありませんわ」
 至言です。そう、この三角関係はあくまでプラトニックでかまわないと思うのです。でも心の「それ」はもっと見えた方がいいと私は思うのですよ。やっぱり足りてない、足りてないよ!

 このくだりのリストがまた素敵。「金なら貸そうか」も、ロベルトの曲を弾いているというのも、それについては曲芸まがいの演奏はしていないというのも。
 ここのクララの貸衣装がやや安っぽい赤なのがまたいい。上質な深紅とかではないの、化繊!って感じなんだよね。金銭的に逼迫していること、似つかわしくないことをやらざるをえないでいることがよく表われていると思いました。
 そしてクララに電報が届く…

 ボンの病院、夏の午後。
 ルイーゼが夫(松風輝)とともに駆けつけています。この旦那さんがまた素敵でさあ! ルイーゼがヨーゼフの忠告を聞き入れて、夫を大事にして今はいい家庭を築いていることがうかがえます。ヨーゼフのエスコートも紳士的で親身で素敵なの!
 死を目前にしてロベルトの意識は明晰で(「明白」って言わないんじゃないかなー)、むしろヨハネスのことを気遣います。
「クララを愛しているのかい」
 ヨハネスは答えられず、けれどロベルトは責めたりしません。「そんな苦しい顔をするな」愛が生まれるのを誰にも止められないことを、彼は知っているのでしょう。そしてヨハネスを励まします。
 ロベルトは、自分にはできなかったことがヨハネスにならできると信じているのです。誰もがベートーヴェンを恐れて登ろうとしなかった交響曲という名の山の頂のその向こうには、大きな広い空があることを、ロベルトはヨハネスに教えます。いつか羽ばたいてその空まで行くことが、ヨハネスにならできると思っているのです。
 クララが現われ、ロベルトは腕の中に彼女を迎え入れます。クララ、もっと泣いてもよかったのにな。もっと肩を震わせるとか…
 そしてヨハネスは歌います。かつてベートーヴェンのことを歌った歌を、自分のこととして。私はけっこう総毛立ちました。
 だってどんな嘆きも喜びも歌う、作品にする、そう宣言する歌なのです。なんて苦しく怖ろしい歌でしょう、人でなしですよね、でもそれが芸術家の業であり宿命なのです。そうしないと生きられない生き物なのです、彼ら芸術家は。そうでないと飛べない空があるのです。
 ロベルトは死に、空から舞い落ちる白い羽がやがて落ち葉に変わっていきます。
「僕とクララにははっきりとわかった、僕たちがロベルトの大きな愛の翼に覆われていたことを。僕とクララの間にもうひとつの不思議な愛があったとしたら、それはその翼の下に憩うていたものだったことを」
「あったとしたら」でいいのか、というかそもそも「不思議」ってのはなんなんだ。せっかくのキメの台詞なのですが私はちょっと引っかかりました。残念。

 一家はベルリンに越すことになり、ヨハネスはウィーンに出ることになりました。
 ある秋の午後、ふたりは別れます。かつてロベルトがクララに買ったピアノも、ベルリンまでは運べないので売ることになりました。「思い出は、目に見え手に触れるものには宿っていません」
 ここでヨハネスがハンブルクの成果についておどけて語るのが好きです。自分の放蕩息子っぷりを笑って見せることで、自分が未だ子供であること、クララにとってもそうであって異性ではなくて無害である、と表明しているようでもある。
 それでもヨハネスは最後の最後に叫んでしまいます。「クララ、一緒にウィーンへ来ませんか!?」けれどクララがうなずくことはありませんでした。
 クララはロベルトと結婚して作曲をやめました。時間の他にもうひとつ失ったものがあるからです。それは「自由」だったのではないでしょうか。そしてそれを失ったかわりに、「孤独」ともまた離れられた。だから家事や育児が忙しくても、経済的に苦しくても、作曲する時間が取れなくても、彼女は幸せだったのでしょう。ヨハネスが好意を寄せてくれても揺らぐ隙などないほどに。いやホントは隙があった方がよかったんだけれど。
 そしてヨハネスには自分たち以上の才能がある、それが自分にはわかる。だから彼を行かせなければならないのです。悔しいけれど、寂しいけれど。
「あなたは自由になるのよ!」
 前楽ではここでゆうりちゃんの声が割れていて、クララの激しさの一端が垣間見えてよかったんですよ!
 ひとりならどこへでも行ける、なんでもできる。それは自由だけれど孤独なことかもしれません。けれど才能に恵まれてしまった人に逃げることは許されないのです。その翼を自分たちが彼に授けたのです。それは呪いでもあったかもしれない。でも彼が引き受けるべきものなのです。
 ヨハネスは歩き出します。その目にもうベートーヴェン?は映りません。ベートーヴェン?はちょっと寂しそうに、でも嬉しそうに、頼もしげに満足げに見送ります。
 そしてヨハネスが彼らから得た翼で飛ぶ空は、どこまでも広くて寂しくて、悲しいほどに美しいのでした…

 フィナーレも素敵でした。
 娘役ちゃんに囲まれて歌い踊るキタさん。その背後にすっとスタンバイするまぁ様。男役の群舞が加わり(まぁ様の真後ろに入ったあっきーニヤリと笑うのやめて!)、キタさんとのデュエダンめいた振りがあり、すっと現われたゆうりちゃんとまったく触れ合わないデュエットダンスがあり、パレードまで。
 きちんとパターンを踏襲するのは大事です。大満足でした。

 というわけで、しつこいようですがやっぱりやっぱり、「心のそれ」がもう少しあることにした方がよかったのではないでしょうか。私はこのクララにはそれが見出せなかった。そこがやっぱり物足りないです。
 「心のそれ」があって、でもあくまで心のうちだけで押しとどめて、耐えて耐えて耐えて、そして最後の最後に一度だけ、キスをする。
 それは激しいものでなくて全然いいの。今回のような、敬愛と情愛にあふれた、ごく優しい、静かな、淡いキスでいいの。そんなキスだからこそ、その裏にあった想いの激しさに泣けるのだから。
 そういう恋物語が私は観たかったな、とやっぱり思ってしまったのでした。

 そして一方で、この作品のもうひとつのテーマは「自由」だったのだろう、とも思うのでした。
 ちょっと自分語りに入りますが、実は私の職業は編集者でして、作家のサポートをしたり作品のプロデュースをすることを生業としています(ヨーゼフの「せめて何か書け!」を座右の銘としたいと思いました・笑)。
 そしてごく若いころ、当時のとある担当作家と、さる口論をしたことがあるのでした。
 彼はとても野心的というかハングリーというか、ビッグな仕事をしてビッグになりたい、みたいな野望が強い人でした。それはとても良いことだったと思います。作品の発表の場が、「わかってくれる人にだけわかってもらえればいいわ」というタイプの場所ではなく、「おもしろいものを作ってたくさん売ってみんなに喜ばれて、みんなで幸せになろう」ということを目指すようなタイプのところだったからです。
 でも彼は、あるときこんなようなことを言いました。
「後世にまで名が残るような偉大な作品が生み出せるのなら、現世での幸せなんかいらない」
 そして私は反論したのでした。
 確か彼にはちょうどそのとき結婚を考えているような恋人がいたのです。男の人にありがちな、そんなところで小さくまとまっていいのだろうか、というような焦りや怯え、目の前に約束された幸福からときに逃げ出したくなる不思議な臆病、日常や平凡に取り込まれることへの恐怖、享楽的な暮らしへの憧憬、破滅願望…そういったものに憑かれているのだな、と私には思えました。だから彼女のためにも憤りました。たとえば仕事の打ち合わせで煮詰まっているところに彼女から電話が入り、彼のまとう空気が一気に柔らかくなり、電話を切ったあと再開した打ち合わせは雰囲気が変わってすごくスムーズに進んだ、ということがあったりしたのです。そういったことが悪いことであるはずがないのです。
 確かにいわゆる天才的な芸術家は、人間的には破綻していたり、奇人変人で酒や麻薬に溺れていたり数々の異性の間を渡り歩いていたり借金取りに追われていたり、と現実の生活者としてはダメダメな場合が多いものかもしれません。
 しかしその逆は必ずしも真ではない。現世で不幸せであれば、破滅していれば、世紀の傑作がものせる、天才になれる、というものではありません。だから私には彼の言うことが世迷い言に思えたのでした。
 むしろ、現実の社会生活におけるごく平凡な幸せを犠牲にしないと作れないような芸術作品なんかいらない、と思いました。だったら半々でいい。適度に幸せな生活を営みつつ、適度に良くできた作品を作ることは可能だろう。それを目指すべきだ、それで十分だ、と言いました。日和って聞こえるかもしれませんが、実際にはそれすら達成できない作家は多い。だから悪魔に魂を売ってでも云々みたいな突拍子もないことなんかことなんか言ってないで、目の前の作品と結婚生活を粛々とこなせ。そんなようなことを私は言いました。
 今でも間違っていたとは思っていません。結局のところ天才なんて望んでなれるものでもないし、悪魔に魂を売ろうが何をしようがなれないときはなれないのです。というかなるものではないだろう天才って。人は天才にならない、天才に生まれるのだ、ってことですね(モジリにしては遠いですねすみませんボーヴォワール先生)。
 確かに真の芸術は現実を犠牲にしないと生まれない、悪魔的なものなのかもしれません。でも天才でない者の僻み、「すっぱい葡萄」と言われてもいい、そんな芸術ならいらない、と言いたい。だいたいそんな域にまで達してしまった芸術作品なんて、一般庶民には鑑賞しきれないものになってしまうのではないかしら…そんな恐れも私は感じているのでした、職業人として。
 だっときっと天才なんてコントロールできないし、商売にならない。
 そして実際に彼は、その後その恋人と結婚し子宝にも恵まれ、一方で仕事も順調に続けており、20年以上たった今でも第一線で活躍し続けています。彼の作品が100年後も読み継がれて後世にまで残っていく傑作なのかどうか、天上の粋に達した芸術作品なのか否か、は私には正直なんとも言えません。しかし時とともに人気や支持や儲けがなくなり仕事の依頼が減り作品を発表する場がなくなっていく大半の作家と違って、彼は今も仕事を続けている。それは成功であり幸福でしょう。
 ときおり彼のファンであるらしきフォロワーさんが彼のツイートをリツイートしてきて、仕事とは完全に切り離してツイッターをやっているつもりの私はちょっと動揺したりすることもあったりしますが(笑)、それは結局のところ彼の現在の成功と幸福の証拠であると私には思えるのです。
 作家の、創作者の作品のすべてがイコール芸術、ではないのかもしれないけれど、では芸術とはなんだろう?とは思ってしまうのですよね。
 そして上田先生は芸術家とは、その「自由」とはなんだと考えているのだろう、と思いはせるのでした。

 上田先生は決してクララを否定的に描いていません。家事と育児に追われて音楽に専念する時間がなかなか取れず、芸術家として飛翔することはついにできないまま終わったのかもしれない女性。けれど彼女の名は今も語り継がれている、それがどんな文脈であれ。そして確かに彼女は幸せであったのだろう、人が人の幸せを判定するのは不遜なことではあるけれど、そう思える…そんなふうに描いていて、その生き方をいいとも悪いとも断罪していないと思いました。
 ヨハネスは彼女を愛し彼女のことをかわいそうがったけれど、結果的には大きなお世話だったような描かれ方になっているようでもある。そして芸術家として飛翔した彼は、ひとり寂しく大きな空を飛んでいる。その空は確かに美しい、そうして彼は幸せだっただろうか…?
 そのことについても、上田先生はいいとも悪いとも言っていないような気がします。未だご自分でも結論が出ていないのかもしれないし、結論なんか出す必要はないと考えているのかもしれません。
 その押しつけない姿勢が、観客には心地いいのかもしれません。

 ヨーゼフは「自由に、しかし孤独に」をモットーとしていて、ヨハネスはそこから「孤独に、しかし自由に」をモットーとしたそうです。
 ヨーゼフは自由になりたくて孤独を引き受け、でも耐え切れず、恋に落ち、結婚したのかしら。そして最初から孤独に慣れていたヨハネスは、それでも理解ある友達に恵まれ、自由を得て、そうして最後まで独身で平気でいられたのかしら。
 いや実際にはいくつかの恋愛はあったようだし、結婚しなかったのはたまたまかもしれないし、そういうことと孤独かどうかということはまた別問題なのだし、孤独で平気というのもまたどうかと思う言い方なのだけれど。
 そんなことを考えたりも、しました。

 しかし三角関係においては、というか恋愛観においては、たとえば柴田先生がこの題材を扱ったら絶対プラトニックではすまさなかったろうと思うのですよ(笑。そしてそれでいて品格のある作品に仕上げたにちがいない)。
 そして私もそういう方が好みだ、というだけの話なんですけれどね。好みを押しつけても仕方ない、しかしここにはまさかジェネレーション・ギャップがあるのか? まあ性差や世代差よりは個人差の方が大きいものかもしれませんが。
 私は自分が恋愛体質ではないだけにフィクションとしての恋愛ものをたいそう愛しているのですけれど、上田先生はどうなのかなあ、興味あるなあ。
 次回作も楽しみです。そして大劇場デビューも。
 そんな希望と喜びに満ちて観られる舞台はなかなかないです。いい観劇になりました。



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初めまして (あづさ)
2016-01-01 03:16:22
初めまして。新年明けましておめでとうございます。
ずいぶん前の記事に今頃コメントしてしまい、すみません。
宝塚初心者で何も分からないのですが、こちらのブログで勉強させて頂いてます。
私は語彙や思考力が乏しく、作品の感想もフィーリングでしか浮かばないのですが、駒乃さんの整理された文章に助けられて、自分なりの考えを巡らせてみています。

「翼ある人びと」を映像で観まして、とても良いものを観たはずなのに何か一つ後から蘇ってくるものがないというか、雪のように儚く溶けてしまってどこか虚しいような印象を覚えました。
駒乃さんの感想を読んで、恋愛の心理描写の物足りなさ、とくにロベルト&クララに人間臭さのようなものがもっとあってよかったのではないか…という部分(大雑把な表現で申し訳ないです)に、なるほどと思いました。
でも逆に、それこそがこの作品のキモだったのではとも考えました。
観客が感じた、物足りなさ、じれったさこそ、ヨハネスがクララに感じていたものであり、この作品の上質で透明な美しさを保ってくれたのかなと。

この作品の主人公はヨハネスですが、私は最後のクララの「自由になるのよ!」のセリフに涙が止まらず、その涙は、クララがヨハネスに最後の最後にぶつけた想いに対するものでした。
観た後に心に残ったものも、クララとロベルトという優しすぎる人たち、その在り方の哀しみ、特にクララの、穏やかさの内に秘められた、今は静かに埋葬されている情熱のようなもの…な気がします。

クララは、ヨハネスの慕情に対しても、音楽家としての野心からも、とうに降りてしまっていて、もうステージには上がらないことを一人決意していて揺らがないように見えました。ロベルトという唯一にして最良の夫と子供たちに人生を捧げ、それがクララにとって幸福であり、他の選択肢などない。
ロベルトも音楽家のくせに善良すぎるほどで、そういう二人に出会い、猥雑な世間に対して心を荒ませ拗ねかけていたヨハネスが、安心して子供に戻り、育ち直し、音楽とまっとうに向き合うことができた…ような印象でした。

クララは翼を持ちながら(ヨハネスほどの才能ではないにしても、音楽へのたしかな情熱を持ちながら)羽ばたくことを選ばなかった。彼女は別のものを選んだ。そのことを後悔することも嘆くこともない。でも、「自由になるのよ!」と言うセリフは、そんな彼女が初めて見せたエゴ、熾火のようにくすぶり続ける情熱や希望、自分の翼をヨハネスに託したような…。切実で哀しく身勝手で、でも温かさもあり。とても心に響きました。

なので私は、ロベルト、クララ、ヨハネスの描き方はあれでよかったのだと思っています。
駒乃さんが「クララが応えなかったら何も始まらない」と仰っていたもの、クララが始めることを最初から諦めていたものを、この後ヨハネスはどこかで一人で、あるいは誰かと始める(音楽も恋愛も)、そういう話なのだと思いました。

そして、ロベルト、クララ、ヨハネスに欠落していたものは、ベートーベン?やフランツ・リスト、ヨーゼフ、その他の人々に反映され描かれていたのだと思います。フランツ・リストはクララが何かを見て見ぬふりをしていることを見抜いていたし、ベートーベン?の激しさはヨハネスの一部でした。
(ルイーゼの立ち位置はよくわかりませんでしたが;)

そして「僕たちがロベルトの大きな愛の翼に覆われていた」というのは、
ロベルトの揺るぎない愛のもとで幸せだったクララ、そのロベルトへの愛をも含めてクララに惹かれ、二人の子供のように無邪気でいられたヨハネス、
彼らの美しい穏やかな日々はロベルト亡きいま、失われてしまった。音楽の才能に比べたら平凡でありきたりのようなロベルトの愛がどれほど大きなものだったか、二人は失くして改めて、わかった……という風に受け止めました。
「僕は歌う~」、ヨハネスはロベルト(とクララ)の温かい腕から飛び立って、残酷だけれど美しい世界へ一人で飛び立つ、閉じていた目を開きすべてを感じて生きるという悲壮な、でも力強い覚悟、そういう歌だと思いました。

最後に……プロローグのダンスシーンがとても好きです。慎み秘められているからこそ激しい、哀しい、そして美しい物語であることを象徴しているように思いました。

長々と、失礼しました。
駒乃さんの仰るように、色々と考えずにいられない作品でした。
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コメントありがとうございました (あづささんへ)
2016-01-06 16:31:04
新年あけましておめでとうございます。
コメントありがとうございました。
昔の記事でも遡って読んでいただけるのは嬉しいです。
私も懐かしく読み返し(^^;)、またいろいろ考えさせられました。
今考えても本当に奇跡のような、美しい、公演でしたねえ…『月雲』も『星逢』もそうなのかもしれませんが。
本当はどんな作品もそうあるべきなのでしょうが、なかなかこうは揃わない。時期とか、配役とか。
時期や配役が変わって再演されても新しい輝きを放つような、汎用性の高い演目こそが理想なのかもしれませんが…
『翼』が中では一番、再演が難しい気がしますねえ…

ご意見を読ませていただいて、私はクララの、その降りてしまった感じ、あきらめておちついている感じをもどかしく思ったのかもしれないな、と思いました。だとしたら私もまだまだ若いな(^^;)。
そしてルイーゼはクララのようには綺麗に選びきれなかった女性、としての在り方をしたキャラクターなのかもしれないと思いました。

また久々に観てみて、また語りたいです。
よければまたいらしてくださいませ!

●駒子●
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