彩の国さいたま芸術劇場、2012年7月22日マチネ。
明治天皇大葬の日。大帝に殉死することを決意した陸軍大将乃木希典(風間杜夫)が、自宅の厩舎の前で三頭の愛馬に別れを告げている。馬の好物であるカステラを積み上げた大鉢を持つのは静子夫人(根岸季衣)だ。だが夫妻のただならぬ様子を敏感に察知した馬たちは、突如として人間の言葉でしゃべり出す。しかも三頭それぞれが前足と後ろ足に分裂し、あわせて六つの人格ならぬ馬格として動き出し…
作/井上ひさし、演出/蜷川幸雄、音楽/朝比奈尚行。1979年初演。全2幕。
童謡の替え歌が入ったりして、おもしろいミュージカルでした。
馬たちに扮した役者さんたちも芸達者ぞろいで。
でも、この作品の本質が、私には残念ながらわかりませんでした。それは私の無教養さ故に、です。
この作品は、馬たちが推量する乃木大将の生き方を描くことによって、乃木大将の一生とか明治という時代とか天皇制とか、そういったものを見せたかったのでしょう。
でも私はミーハー歴史ファンで、幕末と明治維新については多少の知識があっても、明治時代になってしまってからは、ましてその末期についてはほとんどなんの知識も持っていないのです。
乃木大将についても、明治天皇に殉死した、ということしか知りません。どんな軍人だったのかとかどんな軍功を上げたのかとか当時の人にとってどんな存在だったのかとか現代ではどんな評価をされている人なのかとか、まるで知りません。
この作品は、「乃木大将って○○だと思われているけれど、本当は△△だったのかもしれないよ」というお話なんだと思うのですが、そもそも私にその前提となる○○がないわけですよ、知識として、教養として。
だから、もちろんお話がわからなかったわけではないのだけれど、本質的なところが届いてなかった、響かなかった、ということなんだろうなあと思います。
これは、単に作品が古いとかいう問題ではない、根深い問題を含んでいますよねえ…
さてではそんな私が何故この作品を観に行ったかと言えば、もちろんたぁたんとコムちゃんを見に行ったわけです。
ふたりは近所の馬車屋の雌馬・英の前足はなと後ろ足ぶさに扮するわけですが、回想場面では男装して児玉源太郎と山縣有朋に扮します。
これが、井上ひさしの細かいト書きでは「宝塚の男役風に」となっていたそうなのです。それで今回この配役になったそうです。ちなみに過去の公演でこの役を元タカラジェンヌが演じたことはないそうです。
で、デフォルメとして、ふたりは「宝塚以上に宝塚っぽく」演じていて、コムちゃんはあいかわらず動きにキレがあって華やかだしウィンクも決まるし、たぁたんはヒゲも素敵で今でもすぐ男役ができるな!って感じで、客席も大ウケだったんですけれども。
でも、これってはたしてどういう意味があったの?という気がちょっと私はしました。
これまた役のふたりの史実とかを私が知らないからいけないのかもしれませんが、気障な男だったとかなよなよやわやわしていたということなの? それを「宝塚ふうの」演技で見せろ、という演出だったの?
でも客席がウケていたのは明らかに、「元タカラジェンヌが本物の宝塚より宝塚っぽい演技をしている」ことに対してであって、この役の持つおもしろさとかこの演出の妙味とかそういうものに対して笑っていたのではなかったよ? それでいいの?
そして私は宝塚歌劇ファンなので、ふたりのOGを「そうよさっきまでは可愛かったけどこの人たち実はカッコいいのよすごいでしょ」と誇らしげに思う一方で、いわゆる「タカラヅカ」というもの(私はこのカタカナ表記に常に悪意を感じる、心の狭い人間です)をちゃかされていることに腹立たしくも理不尽にも思えてきて、なんかイライラしてきちゃったんですよね。
この場面の本質が捉えられなかった私が悪いのかもしれませんが…
そんなわけで、ぶっちゃけ消化不良な観劇でした、すみません。
明治天皇大葬の日。大帝に殉死することを決意した陸軍大将乃木希典(風間杜夫)が、自宅の厩舎の前で三頭の愛馬に別れを告げている。馬の好物であるカステラを積み上げた大鉢を持つのは静子夫人(根岸季衣)だ。だが夫妻のただならぬ様子を敏感に察知した馬たちは、突如として人間の言葉でしゃべり出す。しかも三頭それぞれが前足と後ろ足に分裂し、あわせて六つの人格ならぬ馬格として動き出し…
作/井上ひさし、演出/蜷川幸雄、音楽/朝比奈尚行。1979年初演。全2幕。
童謡の替え歌が入ったりして、おもしろいミュージカルでした。
馬たちに扮した役者さんたちも芸達者ぞろいで。
でも、この作品の本質が、私には残念ながらわかりませんでした。それは私の無教養さ故に、です。
この作品は、馬たちが推量する乃木大将の生き方を描くことによって、乃木大将の一生とか明治という時代とか天皇制とか、そういったものを見せたかったのでしょう。
でも私はミーハー歴史ファンで、幕末と明治維新については多少の知識があっても、明治時代になってしまってからは、ましてその末期についてはほとんどなんの知識も持っていないのです。
乃木大将についても、明治天皇に殉死した、ということしか知りません。どんな軍人だったのかとかどんな軍功を上げたのかとか当時の人にとってどんな存在だったのかとか現代ではどんな評価をされている人なのかとか、まるで知りません。
この作品は、「乃木大将って○○だと思われているけれど、本当は△△だったのかもしれないよ」というお話なんだと思うのですが、そもそも私にその前提となる○○がないわけですよ、知識として、教養として。
だから、もちろんお話がわからなかったわけではないのだけれど、本質的なところが届いてなかった、響かなかった、ということなんだろうなあと思います。
これは、単に作品が古いとかいう問題ではない、根深い問題を含んでいますよねえ…
さてではそんな私が何故この作品を観に行ったかと言えば、もちろんたぁたんとコムちゃんを見に行ったわけです。
ふたりは近所の馬車屋の雌馬・英の前足はなと後ろ足ぶさに扮するわけですが、回想場面では男装して児玉源太郎と山縣有朋に扮します。
これが、井上ひさしの細かいト書きでは「宝塚の男役風に」となっていたそうなのです。それで今回この配役になったそうです。ちなみに過去の公演でこの役を元タカラジェンヌが演じたことはないそうです。
で、デフォルメとして、ふたりは「宝塚以上に宝塚っぽく」演じていて、コムちゃんはあいかわらず動きにキレがあって華やかだしウィンクも決まるし、たぁたんはヒゲも素敵で今でもすぐ男役ができるな!って感じで、客席も大ウケだったんですけれども。
でも、これってはたしてどういう意味があったの?という気がちょっと私はしました。
これまた役のふたりの史実とかを私が知らないからいけないのかもしれませんが、気障な男だったとかなよなよやわやわしていたということなの? それを「宝塚ふうの」演技で見せろ、という演出だったの?
でも客席がウケていたのは明らかに、「元タカラジェンヌが本物の宝塚より宝塚っぽい演技をしている」ことに対してであって、この役の持つおもしろさとかこの演出の妙味とかそういうものに対して笑っていたのではなかったよ? それでいいの?
そして私は宝塚歌劇ファンなので、ふたりのOGを「そうよさっきまでは可愛かったけどこの人たち実はカッコいいのよすごいでしょ」と誇らしげに思う一方で、いわゆる「タカラヅカ」というもの(私はこのカタカナ表記に常に悪意を感じる、心の狭い人間です)をちゃかされていることに腹立たしくも理不尽にも思えてきて、なんかイライラしてきちゃったんですよね。
この場面の本質が捉えられなかった私が悪いのかもしれませんが…
そんなわけで、ぶっちゃけ消化不良な観劇でした、すみません。