駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『へルタースケルター』雑感

2012年07月19日 | 日記
 私は岡崎京子は大人になってから読みました。リアルタイムで、あるいは思春期に読んでいた人とは感想が違うと思います。
 愛蔵しているコミックスは、『pink』、『リバーズ・エッジ』、『ジオラマボーイ・パノラマガール』、『私は貴男のオモチャなの』、『くちびるから散弾銃』。
 『へルタースケルター』は読んだけれど、何度も繰り返して読むほどではない、と判断してどこかで手放したんだと思います。今は持っていません。
 だいたいの設定とうっすらしたストーリーの記憶だけで、映画版を観に行ってきました。蜷川さんの映画は『さくらん』も画面が美しいのが印象的だったので。
 でもまあ、この原作を、この監督が、この女優の主演で映画化するってだけで、企画としては勝ったも同然、というものだったかもしれませんね。
 いろいろと情報が過多なのですごい集中して観たというのもあるし、一本調子のド直球で緩急がなかったとも言えるし、でも一瞬たりとも飽きなかったし、そういう意味ではおもしろい映画でした。音楽の使い方とかもちょっと変でよかった。
 そしてとても女っぽい映画だなあとも思いました。なんでかは上手く説明できないのですが。
 ただ、逆に言うと、「だからなんだ」という話ではあったかな、とも思ってしまったかな。
 でもそこに、ヘンにしかつめらしい解釈とかを乗っけてこなかったところは、私は好感を持ちました。
 美しいことと幸せであることはイコールじゃない、とか、美しさは移ろうもので虚しいものである、とか、美しい偶像を消費して進む現代社会の闇がどう、とかさ、そういうわかりきった結論めいたものを特に置かなかったところが、私はよかったなと思ったのでした。
 好きかとか、人に勧めるかとか聞かれると、また回答に困るのですが…まあ、でもいい経験ができたかな。いろいろ思うところがあり、そういうことができたのがよかったです。

 思えば、美しいことにアイデンティティを置く生き方って、そりゃつらいよね。
 外見的な美はことに移ろいやすいし、内面からにじみ出る美なんてそうそう簡単に手にできるものじゃないだろうし。
 ただ女の子は、小さいときに「可愛いわねえ、綺麗ねえ」とか褒められて、それでそこに自我の立脚点を置いてしまうことも多いと思うので、こういう闇に囚われやすいんだろうなあとは思います。
 思えば私はそういう子供ではなかった、それでよかったと今は思うよ…
 可愛いとか綺麗だと言われて褒められることはなかった、そんな容姿じゃなかった。常にしっかりしているわね、お勉強ができるんですってねえ、という形で褒められる子供だった。そしてそれは単に事実で、私は学校の勉強が上手だったし、ガキ大将というかリーダータイプの性格だったので学級委員とかを好きでかつ平気でこなすようなタイプの子供だったのだ。
 さらに長じてはオタク気質が開花し、そこにアイデンティティを持つようになった。
 女子としてグレすぎなかったのは、美人でなくとも十人並みではあったことと、母親には本当に可愛く見えるらしく褒めて育ててくれたことが大きかったと思う。
 でもそういう、容姿以外の個性とか能力とか資質とか、要するにそういう「中身」をみんながみんな上手く発見できるとは限らないし(本当はそういうものがまったくない「空っぽな人間」なんて存在しないはずなのだけれど)、その場合この世は女にはいきづらいものになりやすいのだ…ということなのでしょう。
 りりこにだって、愛し気にかけてくれる人はいたのに。彼女がどんな姿をしていようと、変わらず心を寄せてくれる人が。
 でも、彼女はそれに気づかなかったのか、それでは足りないと思ったのか…それで踏み出して、走り続けて、そういて断崖から落ちたのですね。


 あとはあまり映画とか物語とかにあまり関係がない点についてなのですが、ちょっと思ったところを…

 なんかさあ、エリカさまをあんだけ脱がせて見せているんだから、窪塚でも綾野剛でももうちょっと脱がせろよな、と思ったのですよ。
 いや、女の女による女のための映画なんだから男の裸を出せとか、そういう浅薄なことじゃなくて。
 リアリティがないじゃん、それが嫌なの。
 いくつかある濡れ場で、というかそのほとんどが、情熱ゆえの性急さを表現しているんでしょうが、服半脱ぎで行われるわけですよ。まあそれはその方がセクシーだしね、というのもあると思うので、それはいい。
 でもさ、私はこういうときに、男性がズボンのベルト外してファスナー下ろして、それだけでやるってのがとても嘘っぽいと思っていて、それがとにかく嫌なんですね。すごく冷める。
 立ちションじゃないんだしさあ。そんな状態でペニスだけ出したって、もちろんやってやれないことはないんだろうけれど、棹でも陰毛でも(ダイレクトですみません)ファスナーに引っかかりそうで、気になると集中できないだろうし、だから普通はそんな状態ではやらないと思うんですよ。
 服は邪魔だしさ、普通に膝くらいまではズボン下ろしてやるんじゃないかと思うワケですよ。せいぜい半ケツくらいになるとかね(重ね重ね、こんな表現ですみません)。
 でもそれくらい真剣にセックスしてほしいわけ。でないと相手の女性キャラクターに失礼じゃない?
 上半身は服着てて、下半身は脱いでいて、そらマヌケですよ。でもセックスってそもそもそんなに綺麗なばかりのものじゃない。そのマヌケさがリアリティだし、美しさが必要ならそんな状態でも美しく撮るのが技ってものでしょう?
 なのに、これは少女漫画とかでもそうなんだけれど、女の体は見せるくせに男の体は見せないんだよね。少女漫画家はたいてい女性だから、女の体は自分を参考にある程度描けても男の体は上手く描けない、画力がないってこともあるかもしれないし、少女漫画の読者は実は男の体をそんなには見たがっていないのかもしれない、ということもあるかもしれないよ?
 でも私にはただの逃げ、怠惰に見える。ただリアルに描けないことから、それを素敵に描く力がないことから逃げているだけだと思う。
 お尻なんてモザイクかけなきゃいけない部分じゃないし、普通に見せろよ、ちゃんと描けよ、って思っちゃうんだよなー。
 リアルって、セックスって、愛って、嘘がないって、そういうことじゃないの?

 もう一点、これはオチというかクライマックスについて。
 記者会見でりりこが何をしでかすかということは私は綺麗さっぱり忘れて観ていたのですが、なので「あら、『殉情』」とか思ったワケです。世間一般的には『春琴抄』ですね。
 TVCMのキャッチなどでも使われている、「見たいものを見せてあげる」という台詞がこの物語のひとつのテーマなのでしょうが、今なら、私なら、だったら両目やらせたかもな、とか思いました。
 全身整形したりりこが元のままなのは「目玉と耳とアソコくらい」だそうで、その目すらダメにする、というのがいいのかな、と思ったし、片目だけでは眼帯はファッションと変わらない。
 そうではなくて、両目を潰して、もう本人は何も見ることができなくて、それでもどこか異国の曖昧宿(!)で、自分は見世物になって生きている…というのが、いいのかな、と思ったので。

 しかしいい寺島しのぶであった、いい桃井かおりであった、いい原田美枝子であったことよ…!
 うん、やっぱり満足。レディスデーで1000円だったしね!(爆)





コメント (2)
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