駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『温室』

2012年07月07日 | 観劇記/タイトルあ行
 新国立劇場、2012年7月5日マチネ。

 クリスマス、病院と思われる国営収容施設。患者6457号が氏に6459号が出産したという部下ギブス(高橋一生)からの報告に、驚き怒る最高責任者のルート(段田安則)は、秩序の大切さを説き、妊娠させた犯人を探し出せと命令するが…
 作/ハロルド・ピンター、翻訳/喜志哲雄、演出/深津篤史。1980年ロンドン初演。全一幕。

 「個人のアイデンティティや人間関係の『脆さと不安定さ』、そして『社会の歪みや欺瞞』を、洗練された筆致で描き続けた、まさに20世紀を代表する劇作家」だそうですが…
 わー久々に全然わからんかった。
 いや話はわかりますよ、ストーリーは追えるし状況の推測もできるし何が言いたいのかもわかる。
 でも私が舞台に、物語に求めるものってこういうことじゃないんだな、とよくわかりました。この作品が評価されている部分を求めていない私の方が悪いのです。
 この物語の中の人物だったらよかったんだと思う。つまりこの作品ってただの現実のままなのです。曖昧だったり嘘や欺瞞やしょうもなさに満ちていて、なんだかなあな展開になり、そして日々は続いていく。
 でもそんなの私は現実でやっているので、そんなものを舞台でまで観たくない。現実でやってるからこそ耐えられる、というか耐えていかざるをえないのであって、他人が演技でやっているものにつきあう元気も義理も私にはない、感じられない。舞台で見せられるとよりイライラして疲れる。
 あたらこんな優秀な役者と、素敵な装置や美術を駆使して、ただ現実を再現することになんの意味や意義があるのか、私にはよくわかりませんでした。
 現実よりちょっといいかちょっと悪いかはともかく、とにかく現実とはちがうことを見せるべきなんじゃないの? 物語というものは。
 少なくとも私はそういうものを求めているのだ、ということを改めて再確認できた観劇ではありました。



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宝塚歌劇宙組『華やかなりし日々/クライマックス』

2012年07月07日 | 観劇記/タイトルは行
 東京宝塚劇場、2012年6月1日(初日)、2日マチネ、3日ソワレ、5日マチネ、10日マチネ、12日マチネ、14日ソワレ(新人公演)、16日ソワレ、17日マチネ、19日ソワレ、21日マチネ、22日マチネ、23日ソワレ、26日ソワレ、27日マチネ、28日マチネ、29日マチネ、30日マチネ、ソワレ(前楽)、7月1日(千秋楽)。

 感想については…初日雑感脚本つっこみなどでも書いてきましたし、ツイッターでもさんざんつぶやいてきましたので…もういいかな、と…(^^;)

 以下、そのあたりを編集して1000字に収めて「歌劇」の「高声低声」に投稿したものを置いておきます。
 不採用でしたが、今となってはよかったかな、とも思います。卒業の数日後に発売される号に何も載らなくても…という気もして(^^;)。
 この号はカイちゃんの「えと文」が素晴らしかったり、大劇場千秋楽レポがよかったりで、まだまだ目が離せませんね…

***

 『華やかなりし日々』東宝公演初日を観劇しました。大劇場公演から脚本が少し改定されましたが、ますます困惑しています。
 サヨナラ公演といえど湿っぽくせず、さらりと軽妙にしたかったという意図はわかりますし、だから「その後」に想像の余地が残されているのはいいと思うのです。残されたジュディをアーサーは親身になって支えただろう、ニックは更生してキャサリンと結婚したのかな、スポンサーがいなくなってもフローレンツはがんばって興行を続けたのかしら…というのは、なんとなく類推できるので、以後余白、でいいのです。
 でも、ロナウドとロイとの間にそもそも何があったのか、互いに支え合う親友同士だった彼らがどうして決別したのか、そして今はどういう関係でいるのか…それは作品の中できちんと明示してくれないと、観客は混乱します。現行の脚本からは過去の事実が上手く把握も類推もできません。その中途半端さは、観客が感情移入する主人公の人間性にもかかわってきてしまいます。
 ロナウドは、劇場の客に掏りを働こうとするロイを止めるような気性の少年でした。その後、彼は印刷所で働き始め、自立していった。逆に落ちていくばかりだったロイと決裂したということですか? 決定的な何かがあったからですか? それは何?
 それならロイがくれたコインを今なお大事にしているのはおかしくないですか? 「過去は捨てた」とも言っているのに。彼のことを今も案じているなら、彼が逮捕されたあとも何か行動を起こしてもよかったのでは? 今のままだと、ロナウドは親友を見捨てたひどい男に見えかねません。大空さんが緻密に繊細に演じて心優しいロナウドを作っても、脚本の整合性のなさは隠せないのです。
 むしろロイの役をもっと書き込み、北翔さんに演じさせてもよかったのかも…
 あとは、最後の銀橋で花束を見つけるのをジュディにしていただけるとなおよかった…!
 生徒さんがどんなに熱演しても、脚本が弱ければ演目はおもしろいものになりません。逆に、書かれた役がとてもよかったから、お話がとてもよかったから、それを演じる生徒さんのことも、その組のことも好きになっちゃった…観客にそう思わせるくらいの役を、作品を、座付きの先生方には書いていただきたいのです。
 原田先生、大劇場デビューおめでとうございます。ファンは生徒を見守るのと同じように先生方のことも見守っていて、育てる気満々なのです。がんばってください!

***

 『クライマックス』についても、三木先生の最近の作品という意味では『カノン』よりは私は楽しかったかなと思うし、最近のサヨナラ公演のショーという意味では『Misty Station』よりもよかったかなと思うので、これももはや特に言うこともなく…
 でも「ローズ・ラメント」の場面は私は着想として好きなのですが(萩尾望都『酔夢』を思い起こさせた)、やはりやや冗長だったとは思うし、運命の恋・関係の象徴としての行為だとしてもグサグサ殺し合うようなのはサヨナラ公演とかお披露目公演とかにはふさわしくなかったかもしれない、と思うと、別の通常公演のネタに取っておいて、その分スミカがメインの場面を作ったり、デュエットダンスの尺を長くしてくれてもよかったのよ、とは言っておきたい。
 特にスミカには歌もダンスももっと欲しかった。銀橋を渡って歌うソロがあってもよかったと思うし(まりもにはあったじゃん!)、男役を引き連れてセンターで踊り、娘役を引き連れてセンターで踊るスミカ、というかそういう場面、というものを観たかった。
 スミカはそれだけの力量が十分あるダンサーだったと思うもの。私は大空ファンとして大空さんの相手役のスミカも大好きだし大満足ですが、一娘役ファンとしてもっと輝き活躍する娘役が、トップ娘役への餞の場面が観たかった。
 それは書いておきたいです。



コメント (4)
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