帝国劇場、2012年7月16日マチネ。
1888年10月、オーストリア・ハンガリー帝国。ウィーンのホーフブルク劇場では皇帝フランツ・ヨーゼフ(村井國夫)列席のもと華麗なオープニングセレモニーが行われていた。しかし煌びやかな帝国の表の顔とは裏腹に、国内外の情勢は混乱を極め、帝国内では諸民族独立の動きが活発になっていた。そんな中、自由と独立を求める皇太子ルドルフ(井上芳雄)は、国民の声に耳を傾けるよう父である皇帝に訴えるが…
原作/フレデリック・モートン、音楽・原案・脚色/フランク・ワイルドホーン、脚本・歌詞/ジャック・マーフィ、追加歌詞/ナン・ナイトン、演出/デヴィッド・ルヴォー。翻訳/迫光、翻訳・訳詞/竜真知子。
2006年ハンガリー初演、08年日本初演。09年ウィーン初演に際し改定されたルヴォー版の日本初演。全2幕。
そういえばもう一昨年になるのか?いや三年前か?にウィーンに旅行して、オペラ座でバレエ『マイヤーリンク』を観ましたよ…
ところでマイク・ブリットンの装置が素晴らしかったです。私は盆は回してなんぼ派なので(^^;)。カーテンというか幕というかの使い方もよかったなあ、赤の使い方も素敵でした。
しかし話は…私はなんかいろいろ考えながら観てしまって、いい観客ではなかったと思うので、その点をお含みおきつつ読んでいただけると助かるのですが…
私には納得がいきませんでした。このキャラクターで、この展開で、何故ふたりが心中に至るのか、さっぱりもってわからなかったので。
私にとってはほぼ唐突にベッドと一面の蝋燭とスモークが出てきて「えっ、これでもうラストなの!?」とか思っているうちに暗転と銃声、だったので…
えええ全然わかんない。誰にも共感できないうちに終わってしまったというか…しいていえば理屈が通って見えるのは皇太子妃ステファニー(吉沢梨絵)だけだったのですが…あれえ?
別に『うたかたの恋』が観られると思っていたわけじゃないですよ、でも私だって愛の悲劇に涙したかったのに…あれえええ??
とにかく驚いたのがマリー(和音美桜)の造詣です。そここそがルヴォー版の改変だったようですが。
冒頭、ホーフブルク劇場のオープニングセレモニーで、庶民らしき女性が舞台に走り出て拳銃自殺をします(プログラムは「自殺する下層民」となっています。これもすごいな)。なにやら政治的な抗議のためなのだろうということはうかがえます。
首相のターフェ(坂元健児)が必死に事態の収拾を図ろうとする中で、なかば呆然と女性の死体に近づくルドルフ。そこへ若い女が走り寄ってきて、
「毎日ゆっくり死んでいくよりは、一度に死んでしまいたいときもあるのよ、人間には!」
みたいなことを言い放ちます。同伴していた年上の女性、これは私は一路真輝の顔はわかるのでこれがラリッシュかとはわかったのですが、彼女が
「マリー!」
と呼ぶので、ではこれがマリーなのかオイすごいキャラだな!と思ったところから私の観劇はスタートしました(^^;)。
イヤその前の、セレモニーに向かうために身支度するステファニーとそれを無視するルドルフ、のやりとりにはニヤリとしましたけれどね。この場面は登場人物が誰でありどんな関係かよく表現していてよかったです。
しかしマリーは私は顔がわからないということもあるし(彼女が在団していたころの宙組公演を私はほとんど観ていないので…そして今回は真ん中からやや後方の全体が見やすい席で、そして私は本来はオペラグラスを使うのがあまり好きではない質なので)、次に出てくる場面とかはなかなか名前が呼ばれないのでわかりづらく、不親切な演出にイライラしましたが、とにかくメインふたりが出揃って話が始まった、とここで思ったわけです。
しかしスターにぱっとスポットライトを当ててアピールする宝塚歌劇の様式美と親切さはすばらしいなあ!
それはともかく、次の場面では彼女はツェップス(だったかな?)の新聞を読んでいて、どうやらルドルフが偽名で書いている記事の熱心なファンであるらしいことが描かれるのです。さらにすごいなオイ!
私は史実はだいたいのところしか知りませんが、彼女は男爵令嬢なんですよね。落ちぶれかけた、なのか成り上がり気味の、なのかは物語によって扱われ方が違ったのではなかったかなあ。ここでは家は零落していて、彼女は家族を助けるために財産家との政略結婚を勧められているらしい。しかし別に「♪結婚だけは好きな人としたい」という理由からではなく、単に相手が気に入らないのでその話からは逃げているらしい。
まっとうに育てられた貴族の女は愛と結婚が別物だと教育されるので、普通は政略結婚を嫌がらないものなのではないかと私なんかは思いますけれどね…家族のために政略結婚をしないのは義務の放棄だよね。ただのわがままです。アタマか悪いとさえ言える。
しかし彼女は別にロマンチックな愛を求めているからとかそういうことではなくて、まあいずれそのうちしなくちゃなんないならしますけど今はもう少しだけほっておいてほしいなあ、くらいに見える。それには好感を持ちました。自然なことだと思えるからです。なんてってってまだ17歳だしね。
では何が彼女にとって当面の問題なのかというと、それが驚いたことに政治問題なわけなんですねえ。
貧乏かもしれないけれど貴族の特権は享受しているであろう年端もいかない幼い娘が、なんだって現政権の政治に反対したりするんですかねえ。私は政治に疎いんでさっぱりわからないのですが…
本当のことを言えばそれはルドルフに対しても言えることなんだけれど、彼については明らかに父親への鬱屈という側面があるわけです。
フランツ・ヨーゼフ自身は若くして即位して、そこから在位50年とかそれはめでたいことですが、確かに体制は硬直しているだろうし、皇太子のルドルフは中年になろうとしているのにさしたる権限も与えられずただくすぶっているんだから、それは不満もたまるし反抗もしようというものです。
そこを反体制派につけこまれたりなんたりしているんですよね。でもこれは類推や『エリザベート』からの知識であって、この作品の中できちんと何が原因で誰と誰が何をどう争っているのかが描かれることはあまりなく、それがこの物語の弱さになっていると私は思いました。
誰と誰が何をどう争い、それがどう展開し、だからそれに敗れた者が死を選ばざるをえなかったのだ…という物語の流れが私には不明瞭に思えました。だからラストに納得がいかなかった。そこが最大の問題でした。
史実や歴史上の人物の言動を現代的視点でのみ切り解釈しても無理もあれば限界があるのも当然です。
しかしマリーを、ただの清純無垢な乙女にしなかったのならば、ルドルフの思想に共感し同調し政治的盟友ともなれるソウルメイトとして設定したのなら、それはかなり現代的な見方で、だからこそ心中に至るにはより必然性が、その説明が必要になったと思うのです。それは、私にはなかったように思えました。
ルドルフについても、病みかけた繊細な夢見がちな若者ではなくて、心身ともに健康な、だからこそ抑圧に反発している、ごく普通の大人の男性、に描いているように私には見えました。
だったら、彼の、彼と彼女の戦いがなんだったのかをもっとクリアに見せないと、何故死を選ばなくてはならないのかが納得できないのは仕方ないですよね。
弱い、現世に疲れた、ロマンティストな男女が逃げて死んだんじゃないんだもん。そういう解釈にはしないことにした話なんだもん。だったら違う解釈とはなんなのか、それを見せてもらいたかった。そして私にはそれが見えませんでしたよ? それは私のせいなのか?
というワケでマリーが何故そんなに政治的な人間なのか説明がまったくないのは減点1ですが、彼女が政治的な人間であった方が同じく政治的な人間であるルドルフと接近しやすかったのでしょうからそれはいい。
彼女はルドルフが偽名で書いた記事の熱心な読者で、彼こそがその書き手だと知ったとき、恋に落ちます。ルドルフもまた、彼女が自分の記事を認めてくれたからこそ恋に落ちたのでしょう。
(確かに文章に人となりは表れるし、だから書いた文章が好きなら書いた人のことも好感を持つというのは自然です。しかし実際に書き手に会って恋に落ちるかどうかは本当のことを言えば残念ながらまた別問題であることを私は経験をもって知っていますが、それはまた別の話。ここではふたりは幸運にも恋に落ちることができた、そうしたらそれはかなり強い結びつきになりますよね、それはわかるので、それで十分なのです)
こうしてふたりはソウルメイトとなりえるお互いと出会い、恋に落ちた。めでたいですねえ、ではその先、何が問題になるのか?
ルドルフがローマ教皇に自分とステファニーの結婚を無効にするよう手紙を書いたというのは史実なんでしょうかねえ。どこのヘンリー8世なのか。
しかしこの行動がまずよくわからん。ルドルフってマリーと結婚したかったの? 少なくともマリーがルドルフと結婚したいと言う場面はなかったと思うけれど。
先述したとおりこの時代の貴族社会に生まれ育った人間にとって愛と結婚は別物であることはごく一般的な常識のひとつにすぎなかったのではないでしょうか。すごく好きな人ができたから政略結婚はチャラにして好きな人と結婚したがる、というのはいかにも現代的な視点に私には思えるんだけれどなあ…お互い支障のないよう婚外恋愛をする、というのも自然なことだったんじゃないの?
ただ一方で彼らは敬虔なカトリックだと思うので、婚外性交は問題だという意識もあったんだろうし、神のもとに誓った結婚は愛情と貞節を伴うべきものだという意識もあったのでしょうね。
だからルドルフがちゃんとしたがったのもわからないでもない。でもそれはこの時代、かなり難しいことだった。だからこそステファニーも、怒り暴れなじりながらも、結局はおちついてふんぞり返っていられたわけです。妻の座は動かない、彼と暮らすのは自分であり、彼と共に家の墓に入るのはあくまで妻である自分なのです。
そしてステファニーがあてこすったように、「近代的な人間である」マリーにとっては結婚は大きな問題ではなかったかもしれないのです。なのにルドルフが勝手にこうした行動に出たことは、マリーにとってはむしろ侮辱だと私は思うのだけれど、このあたりのことについても特にくわしく描かれることはなく話は進むのでした…
マリーはルドルフを愛しルドルフに愛されていることに自信を持っていました。だから結婚なんかどうでも、まったく問題はなかったのです。
ではマリーがしたかったこと、ルドルフとしたかったことはなんなのか。「世界を変えること」だったんじゃないの?
彼らはふたりとも政治的な人間で、政治的思想が一致して共鳴して恋に落ちて、だからその思想を実現すべく、改革を推し進めるべく生きていこうとするのではないの?
それが阻まれるから死に追いやられるのだと思うのだけれど…
そこらへんも不明瞭でしたよね?
そもそもフランツの政治は本当に問題があるのか、問題があるとすればそれはなんなのか、もっと端的に表現してくれないとわかりません。なんだかんだいって『エリザベート』はそういう部分が見えやすかった。この作品にはそれがない。
ルドルフはフランツ体制の何をどう改定しようとしているのか? 感動的なナンバー「明日への道」からは、彼のスピーチが民衆の心を捉えたようにも見えたのだけれど、では何故、何が頓挫するの? 何も描かれないままルドルフはマイヤーリンクに行きますよね?
対するマリーも、ターフェに呼び付けられて家族の安全をダシに脅迫されるわけですが、それは彼女にとって本当に苦しいことなの、なんなの? マリーの家族はまったく出てきませんよね、理解も愛もない親なんだったらうっちゃったっていいんじゃないの? 生活保護支給問題じゃないけど、成人の親の扶養義務はないんじゃないの?(ましてマリーは未成年だよ?)
マリーが、ルドルフと共に生きたいという思いと家族との思いに引き裂かれる、ということならば、その家族を、家族への思いを描いてくれないとわかりません。
自分が生きていると家族の身が危ない、愛する家族の命を救うためには、私が死ぬしかないのだ…くらいに追い込まれないと、このマリーが、心中を選ぶ理由がないように私には見えるのですが…
ふたりが何をどう戦い、どうそれに敗れて、だから死を選ばざるをえなかったかが、私にはまったく見えませんでした…
だから「ええええ」と思っているうちにマイヤーリンクの場面は終わり、物語も終わってしまったのでした…
うーんうーんうーん。
たとえばバレエやオペラの主人公はヒロイン、プリマドンナです。そろそろマリーを主人公にした『マリー・V』なんて作品が生まれてもいいのかもしれない、Vにはいろいこじつけたいところだけれど、何があるかな…なんて考えながら観ていた私が悪いのかもしれないのですが。
主人公は女。若くて、でも決して愚かではなくて、理想や志があって。それを共にできる相手と出会って。彼はなんとたまたま王子様で。
もちろん彼と結婚することを夢見なかったわけではない。そこまでできなくても、公妾の地位を得るだけでも宮廷には君臨できて、華やかでおもしろおかしい暮らしが送れたかもしれない。
そういうことを考えなかったわけではない、女だもの。でもそれよりもっとしたいことか、欲しいものがあったの。それは…
まあ私はあまり政治的な人間ではなく、国とか世界とかを考えるのが苦手なのでなんかちょっとこの先がうまくイメージできないんだけれど…でもなんだろう、民族とか宗教とか身分とか、そういうことで差別されない世界を作りたい、とか、そういうのはわかる。というか世界ってそうあるべきだなんて普通の人間はわかってる。
今の皇帝にはそれがわかっていない、そういう世の中が作れていない。既得権益にしがみついて、弱者を弾圧し、悪政をしいている。
あなたは皇太子なんだから、もっとお父さんに強く言わなければダメよ、あなたがお父さんりなり代わるくらいでなくてはダメよ…とか?
もしかしたら、では、来たるべき物語とは、女のそういう志が男を追い詰め殺してしまう物語になるしかないのかしら…そして女自身もそれに殉じる物語に?
うーんうーんうーん…
でもなあ、ありえるなあ。
新しい時代を夢見て。共闘できる相手と出会って愛し合ってがんばって。
でも現実の壁は厚くて、男は疲れて病んで死のうとする。女はそんな男を捨てられないんだよね。自分ひとりじゃできないから、国を継ぐべきなのは彼だから、というのもあるけれど、そういう損得だけじゃなくて、本当に愛してしまったら、その男が変節してしまっても別れられない。
いやホント言うと別れられるんだけど、そんな男なら捨てちゃえる女の方が普通なんだけれど、普通と言うか当然と言うか健全と言うか。でもそれじゃ物語にならないんだよね残念ながら。
現実はそうだからこそ、物語には、捨てられない恋、捨てられない男を望むわけですよ女というものは。
しかし…壊れていく男を捨てられなくて、愛に殉じて死ぬ女の物語、か…成立するかなあ。でも、愛に殺される女の悲劇、というのは広い意味では定番でもあるかなあ。
うーんうーんうーん………
というワケでキャストはみなさん素敵でした。
こんな感想とまとめですみません…
1888年10月、オーストリア・ハンガリー帝国。ウィーンのホーフブルク劇場では皇帝フランツ・ヨーゼフ(村井國夫)列席のもと華麗なオープニングセレモニーが行われていた。しかし煌びやかな帝国の表の顔とは裏腹に、国内外の情勢は混乱を極め、帝国内では諸民族独立の動きが活発になっていた。そんな中、自由と独立を求める皇太子ルドルフ(井上芳雄)は、国民の声に耳を傾けるよう父である皇帝に訴えるが…
原作/フレデリック・モートン、音楽・原案・脚色/フランク・ワイルドホーン、脚本・歌詞/ジャック・マーフィ、追加歌詞/ナン・ナイトン、演出/デヴィッド・ルヴォー。翻訳/迫光、翻訳・訳詞/竜真知子。
2006年ハンガリー初演、08年日本初演。09年ウィーン初演に際し改定されたルヴォー版の日本初演。全2幕。
そういえばもう一昨年になるのか?いや三年前か?にウィーンに旅行して、オペラ座でバレエ『マイヤーリンク』を観ましたよ…
ところでマイク・ブリットンの装置が素晴らしかったです。私は盆は回してなんぼ派なので(^^;)。カーテンというか幕というかの使い方もよかったなあ、赤の使い方も素敵でした。
しかし話は…私はなんかいろいろ考えながら観てしまって、いい観客ではなかったと思うので、その点をお含みおきつつ読んでいただけると助かるのですが…
私には納得がいきませんでした。このキャラクターで、この展開で、何故ふたりが心中に至るのか、さっぱりもってわからなかったので。
私にとってはほぼ唐突にベッドと一面の蝋燭とスモークが出てきて「えっ、これでもうラストなの!?」とか思っているうちに暗転と銃声、だったので…
えええ全然わかんない。誰にも共感できないうちに終わってしまったというか…しいていえば理屈が通って見えるのは皇太子妃ステファニー(吉沢梨絵)だけだったのですが…あれえ?
別に『うたかたの恋』が観られると思っていたわけじゃないですよ、でも私だって愛の悲劇に涙したかったのに…あれえええ??
とにかく驚いたのがマリー(和音美桜)の造詣です。そここそがルヴォー版の改変だったようですが。
冒頭、ホーフブルク劇場のオープニングセレモニーで、庶民らしき女性が舞台に走り出て拳銃自殺をします(プログラムは「自殺する下層民」となっています。これもすごいな)。なにやら政治的な抗議のためなのだろうということはうかがえます。
首相のターフェ(坂元健児)が必死に事態の収拾を図ろうとする中で、なかば呆然と女性の死体に近づくルドルフ。そこへ若い女が走り寄ってきて、
「毎日ゆっくり死んでいくよりは、一度に死んでしまいたいときもあるのよ、人間には!」
みたいなことを言い放ちます。同伴していた年上の女性、これは私は一路真輝の顔はわかるのでこれがラリッシュかとはわかったのですが、彼女が
「マリー!」
と呼ぶので、ではこれがマリーなのかオイすごいキャラだな!と思ったところから私の観劇はスタートしました(^^;)。
イヤその前の、セレモニーに向かうために身支度するステファニーとそれを無視するルドルフ、のやりとりにはニヤリとしましたけれどね。この場面は登場人物が誰でありどんな関係かよく表現していてよかったです。
しかしマリーは私は顔がわからないということもあるし(彼女が在団していたころの宙組公演を私はほとんど観ていないので…そして今回は真ん中からやや後方の全体が見やすい席で、そして私は本来はオペラグラスを使うのがあまり好きではない質なので)、次に出てくる場面とかはなかなか名前が呼ばれないのでわかりづらく、不親切な演出にイライラしましたが、とにかくメインふたりが出揃って話が始まった、とここで思ったわけです。
しかしスターにぱっとスポットライトを当ててアピールする宝塚歌劇の様式美と親切さはすばらしいなあ!
それはともかく、次の場面では彼女はツェップス(だったかな?)の新聞を読んでいて、どうやらルドルフが偽名で書いている記事の熱心なファンであるらしいことが描かれるのです。さらにすごいなオイ!
私は史実はだいたいのところしか知りませんが、彼女は男爵令嬢なんですよね。落ちぶれかけた、なのか成り上がり気味の、なのかは物語によって扱われ方が違ったのではなかったかなあ。ここでは家は零落していて、彼女は家族を助けるために財産家との政略結婚を勧められているらしい。しかし別に「♪結婚だけは好きな人としたい」という理由からではなく、単に相手が気に入らないのでその話からは逃げているらしい。
まっとうに育てられた貴族の女は愛と結婚が別物だと教育されるので、普通は政略結婚を嫌がらないものなのではないかと私なんかは思いますけれどね…家族のために政略結婚をしないのは義務の放棄だよね。ただのわがままです。アタマか悪いとさえ言える。
しかし彼女は別にロマンチックな愛を求めているからとかそういうことではなくて、まあいずれそのうちしなくちゃなんないならしますけど今はもう少しだけほっておいてほしいなあ、くらいに見える。それには好感を持ちました。自然なことだと思えるからです。なんてってってまだ17歳だしね。
では何が彼女にとって当面の問題なのかというと、それが驚いたことに政治問題なわけなんですねえ。
貧乏かもしれないけれど貴族の特権は享受しているであろう年端もいかない幼い娘が、なんだって現政権の政治に反対したりするんですかねえ。私は政治に疎いんでさっぱりわからないのですが…
本当のことを言えばそれはルドルフに対しても言えることなんだけれど、彼については明らかに父親への鬱屈という側面があるわけです。
フランツ・ヨーゼフ自身は若くして即位して、そこから在位50年とかそれはめでたいことですが、確かに体制は硬直しているだろうし、皇太子のルドルフは中年になろうとしているのにさしたる権限も与えられずただくすぶっているんだから、それは不満もたまるし反抗もしようというものです。
そこを反体制派につけこまれたりなんたりしているんですよね。でもこれは類推や『エリザベート』からの知識であって、この作品の中できちんと何が原因で誰と誰が何をどう争っているのかが描かれることはあまりなく、それがこの物語の弱さになっていると私は思いました。
誰と誰が何をどう争い、それがどう展開し、だからそれに敗れた者が死を選ばざるをえなかったのだ…という物語の流れが私には不明瞭に思えました。だからラストに納得がいかなかった。そこが最大の問題でした。
史実や歴史上の人物の言動を現代的視点でのみ切り解釈しても無理もあれば限界があるのも当然です。
しかしマリーを、ただの清純無垢な乙女にしなかったのならば、ルドルフの思想に共感し同調し政治的盟友ともなれるソウルメイトとして設定したのなら、それはかなり現代的な見方で、だからこそ心中に至るにはより必然性が、その説明が必要になったと思うのです。それは、私にはなかったように思えました。
ルドルフについても、病みかけた繊細な夢見がちな若者ではなくて、心身ともに健康な、だからこそ抑圧に反発している、ごく普通の大人の男性、に描いているように私には見えました。
だったら、彼の、彼と彼女の戦いがなんだったのかをもっとクリアに見せないと、何故死を選ばなくてはならないのかが納得できないのは仕方ないですよね。
弱い、現世に疲れた、ロマンティストな男女が逃げて死んだんじゃないんだもん。そういう解釈にはしないことにした話なんだもん。だったら違う解釈とはなんなのか、それを見せてもらいたかった。そして私にはそれが見えませんでしたよ? それは私のせいなのか?
というワケでマリーが何故そんなに政治的な人間なのか説明がまったくないのは減点1ですが、彼女が政治的な人間であった方が同じく政治的な人間であるルドルフと接近しやすかったのでしょうからそれはいい。
彼女はルドルフが偽名で書いた記事の熱心な読者で、彼こそがその書き手だと知ったとき、恋に落ちます。ルドルフもまた、彼女が自分の記事を認めてくれたからこそ恋に落ちたのでしょう。
(確かに文章に人となりは表れるし、だから書いた文章が好きなら書いた人のことも好感を持つというのは自然です。しかし実際に書き手に会って恋に落ちるかどうかは本当のことを言えば残念ながらまた別問題であることを私は経験をもって知っていますが、それはまた別の話。ここではふたりは幸運にも恋に落ちることができた、そうしたらそれはかなり強い結びつきになりますよね、それはわかるので、それで十分なのです)
こうしてふたりはソウルメイトとなりえるお互いと出会い、恋に落ちた。めでたいですねえ、ではその先、何が問題になるのか?
ルドルフがローマ教皇に自分とステファニーの結婚を無効にするよう手紙を書いたというのは史実なんでしょうかねえ。どこのヘンリー8世なのか。
しかしこの行動がまずよくわからん。ルドルフってマリーと結婚したかったの? 少なくともマリーがルドルフと結婚したいと言う場面はなかったと思うけれど。
先述したとおりこの時代の貴族社会に生まれ育った人間にとって愛と結婚は別物であることはごく一般的な常識のひとつにすぎなかったのではないでしょうか。すごく好きな人ができたから政略結婚はチャラにして好きな人と結婚したがる、というのはいかにも現代的な視点に私には思えるんだけれどなあ…お互い支障のないよう婚外恋愛をする、というのも自然なことだったんじゃないの?
ただ一方で彼らは敬虔なカトリックだと思うので、婚外性交は問題だという意識もあったんだろうし、神のもとに誓った結婚は愛情と貞節を伴うべきものだという意識もあったのでしょうね。
だからルドルフがちゃんとしたがったのもわからないでもない。でもそれはこの時代、かなり難しいことだった。だからこそステファニーも、怒り暴れなじりながらも、結局はおちついてふんぞり返っていられたわけです。妻の座は動かない、彼と暮らすのは自分であり、彼と共に家の墓に入るのはあくまで妻である自分なのです。
そしてステファニーがあてこすったように、「近代的な人間である」マリーにとっては結婚は大きな問題ではなかったかもしれないのです。なのにルドルフが勝手にこうした行動に出たことは、マリーにとってはむしろ侮辱だと私は思うのだけれど、このあたりのことについても特にくわしく描かれることはなく話は進むのでした…
マリーはルドルフを愛しルドルフに愛されていることに自信を持っていました。だから結婚なんかどうでも、まったく問題はなかったのです。
ではマリーがしたかったこと、ルドルフとしたかったことはなんなのか。「世界を変えること」だったんじゃないの?
彼らはふたりとも政治的な人間で、政治的思想が一致して共鳴して恋に落ちて、だからその思想を実現すべく、改革を推し進めるべく生きていこうとするのではないの?
それが阻まれるから死に追いやられるのだと思うのだけれど…
そこらへんも不明瞭でしたよね?
そもそもフランツの政治は本当に問題があるのか、問題があるとすればそれはなんなのか、もっと端的に表現してくれないとわかりません。なんだかんだいって『エリザベート』はそういう部分が見えやすかった。この作品にはそれがない。
ルドルフはフランツ体制の何をどう改定しようとしているのか? 感動的なナンバー「明日への道」からは、彼のスピーチが民衆の心を捉えたようにも見えたのだけれど、では何故、何が頓挫するの? 何も描かれないままルドルフはマイヤーリンクに行きますよね?
対するマリーも、ターフェに呼び付けられて家族の安全をダシに脅迫されるわけですが、それは彼女にとって本当に苦しいことなの、なんなの? マリーの家族はまったく出てきませんよね、理解も愛もない親なんだったらうっちゃったっていいんじゃないの? 生活保護支給問題じゃないけど、成人の親の扶養義務はないんじゃないの?(ましてマリーは未成年だよ?)
マリーが、ルドルフと共に生きたいという思いと家族との思いに引き裂かれる、ということならば、その家族を、家族への思いを描いてくれないとわかりません。
自分が生きていると家族の身が危ない、愛する家族の命を救うためには、私が死ぬしかないのだ…くらいに追い込まれないと、このマリーが、心中を選ぶ理由がないように私には見えるのですが…
ふたりが何をどう戦い、どうそれに敗れて、だから死を選ばざるをえなかったかが、私にはまったく見えませんでした…
だから「ええええ」と思っているうちにマイヤーリンクの場面は終わり、物語も終わってしまったのでした…
うーんうーんうーん。
たとえばバレエやオペラの主人公はヒロイン、プリマドンナです。そろそろマリーを主人公にした『マリー・V』なんて作品が生まれてもいいのかもしれない、Vにはいろいこじつけたいところだけれど、何があるかな…なんて考えながら観ていた私が悪いのかもしれないのですが。
主人公は女。若くて、でも決して愚かではなくて、理想や志があって。それを共にできる相手と出会って。彼はなんとたまたま王子様で。
もちろん彼と結婚することを夢見なかったわけではない。そこまでできなくても、公妾の地位を得るだけでも宮廷には君臨できて、華やかでおもしろおかしい暮らしが送れたかもしれない。
そういうことを考えなかったわけではない、女だもの。でもそれよりもっとしたいことか、欲しいものがあったの。それは…
まあ私はあまり政治的な人間ではなく、国とか世界とかを考えるのが苦手なのでなんかちょっとこの先がうまくイメージできないんだけれど…でもなんだろう、民族とか宗教とか身分とか、そういうことで差別されない世界を作りたい、とか、そういうのはわかる。というか世界ってそうあるべきだなんて普通の人間はわかってる。
今の皇帝にはそれがわかっていない、そういう世の中が作れていない。既得権益にしがみついて、弱者を弾圧し、悪政をしいている。
あなたは皇太子なんだから、もっとお父さんに強く言わなければダメよ、あなたがお父さんりなり代わるくらいでなくてはダメよ…とか?
もしかしたら、では、来たるべき物語とは、女のそういう志が男を追い詰め殺してしまう物語になるしかないのかしら…そして女自身もそれに殉じる物語に?
うーんうーんうーん…
でもなあ、ありえるなあ。
新しい時代を夢見て。共闘できる相手と出会って愛し合ってがんばって。
でも現実の壁は厚くて、男は疲れて病んで死のうとする。女はそんな男を捨てられないんだよね。自分ひとりじゃできないから、国を継ぐべきなのは彼だから、というのもあるけれど、そういう損得だけじゃなくて、本当に愛してしまったら、その男が変節してしまっても別れられない。
いやホント言うと別れられるんだけど、そんな男なら捨てちゃえる女の方が普通なんだけれど、普通と言うか当然と言うか健全と言うか。でもそれじゃ物語にならないんだよね残念ながら。
現実はそうだからこそ、物語には、捨てられない恋、捨てられない男を望むわけですよ女というものは。
しかし…壊れていく男を捨てられなくて、愛に殉じて死ぬ女の物語、か…成立するかなあ。でも、愛に殺される女の悲劇、というのは広い意味では定番でもあるかなあ。
うーんうーんうーん………
というワケでキャストはみなさん素敵でした。
こんな感想とまとめですみません…