映画 ご(誤)鑑賞日記

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あの日のように抱きしめて(2014年)

2016-03-31 | 【あ】



 ネリー(ニーナ・ホス)は、声楽家だったが、1944年10月に逮捕され収容所送りとなる。

 戦争が終わり、ネリーは強制収容所から奇跡的に生還を果たすが、顔面に大怪我をしており、修復手術を受ける。その際、医者には元の顔とは別の顔を勧められるが、頑なに「元の顔にしてほしい」と訴える。しかし、元通りとは行かなかったのだろう、元の顔に似た顔となる。

 親友ネル(ニーナ・クンツェンドルフ)の協力を得て、少しずつ体力を回復させていくネリー。そこでネルから、ネリーの一族は全滅したこと、非ユダヤ人で生き別れになっていた夫・ジョニーが自分を裏切ったらしいこと、しかしジョニーは無事に生きていること、などを聴かされる。

 手術の痕もまだ痛々しいにもかかわらず、ネリーはジョニーを探しに夜の街を彷徨する。ピアニストだったことを頼りに探した結果、場末の酒場で働いている夫を探し当てるネリー。しかし、愛しい夫は、ネリーを見てもネリーだと分からず、「元妻に似ている女」としか認識しない。そして、こともあろうに、「元妻の一族は全滅したが、元妻だけが生きていることにすれば全財産を相続できる。相続した財産のうち、2万ドルを渡すから協力してくれ」と、ネリーに持ち掛ける。

 衝撃を受けるネリーだが、エスターと名乗り別人を演じつつ、ジョニーの申し出を受けることに。果たして、ネリーとジョニーの関係はどうなるのか。

 ……ジャズの名曲、「スピーク・ロウ」が鍵になります。監督のクリスティアン・ペッツォルトは、ヒッチコックの『めまい』にインスパイアされたと語っているそうです。え゛~~っ。『めまい』なんかよりゼンゼン味わい深く、心に沁みる作品、、、だと思うけどなぁ。

  
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 昨年、公開時に劇場に行きたかったけど行けずに終わった本作。、、、とはいえ、それほど期待していたわけではなかったんです。何となく、ストーリー的にナチものというよりサスペンスっぽい印象だったので、面白そうかな、と思った程度だったので。 

 で、やっとDVDで見ました。……すごく、グッときました。じーん、、、となるといいますか。正直、ツッコミどころはありますが、そんなことはどーでもいいと思っちゃう。

 本作を見て誰もが思うことの一つは、“ジョニーは本当にネリーを愛していたのか、いなかったのか”でしょう。評価が分かれるところのようですが、私なりの解釈は後述するとして、、、。

 ジョンは、エスターを名乗るネリーに、ネリーになりきるためにあれこれ指南します。この辺が『めまい』に通じるところですかね。歩き方、筆跡、髪の色、果ては着るものまで指示します。

 ネリーは、収容所で角材に座らされる拷問を受けていた、と作中語っていましたが、想像を絶する生活で、容貌のみならず、歩き方まですっかり変わってしまっていたのでしょう。ジョニーの求めに応じ、エスターとして、ネリーになるべく歩き方を練習します。しかし、筆跡は、、、練習するまでもなくそのままの文字を書くことが出来ます。ジョニーに筆跡を披露するシーンがありますが、、、。そこで、ネリーと気付いてくれるのではないか、という一縷の望みを抱いて必死で文字を書くネリーの姿がひたすら切ないです。

 どうしてジョニーは気付かないんだ! というツッコミを入れる人もいるでしょうが、私は気付かないのも不思議ではないと思うのです。どうやら、ジョニーは、保身のためにネリーをナチの秘密警察に売ったようなのですが(ハッキリは分からない)、そのことに対する激しい負い目と、あの収容所から生還してくる訳がないという強烈な思い込みが、ジョニーを現実に向き合わせることを遮っていたのでしょう。そういうことってあるんじゃないかしらん。だからむしろ、思い込みのない以前の知り合いは、ネリーを見てすぐにネリーと判別できたりする。一番、ネリーの身近にいたジョニーだけが気付かない、気付けないのです。負い目と思い込みが彼の心の眼を大いに曇らせてしまっていたのです。

 そして、ネリーは、ただひたすらに、ジョニーに気付いてほしかった。それがムリだと悟ってからは、新たな関係でも良いから、ジョニーの側にいて共に人生を歩みたいと切に願ったのでしょう。だから、健気にジョニーの残酷ともいえる要求に従っていたのです。彼女の気持ちも、振る舞いも、理解できてしまう私って、もしかしてドMでしょーか??

 ジョニーは、ネリーを愛していたらナチに売らないだろう、という疑問もあります。でも、それはネリー側から見た言い分。ジョニーはユダヤ人ではなく、ネリーをギリギリまで匿っていたし、追い詰められた状況で、最終的には自己保身に走ったとしても、それがネリーを愛していなかったことの証明にはなりません。究極の自己犠牲を伴わなかったのです、ジョニーのネリーに対する愛は。だからと言って、彼にとって、妻はネリーじゃなくても良かったわけではない。それは、今、孤独に生活していることを見れば察しがつきます。

 こういう人っているでしょう。別に責められることじゃありませんよ。私だって、自分が殺されるかもしれないというギリギリの状況で、それでも自分は死んでも、相手を助けたいと心底思えるかと聞かれれば、怪しいもんです。つい、その場で、相手を売るようなことをしてしまうかも知れない。そして、その直後には死ぬほど後悔するけれど、死ぬ勇気もなく、、、。それが一人の弱い人間の真の姿じゃないでしょうか。わが命と引き換えの究極の自己犠牲を伴ってまで愛する人を守る、というカッコよさだけが真の愛だなんて、愛の解釈が狭すぎると思います。

 なので、私は、ジョニーなりにネリーをちゃんと愛していたのだと思いました。ネリーの望む愛し方ではなかったかもしれないが、愛していたと思います。

 ジョンがネリーに指南する場面で、実にネリーのことをよく見ていたことが分かるのです。歩き方、喋り方、彼女の好み、、、。そして、ネリーの書いたメモや雑誌の切り抜きまでとってある。何より、彼には新しい女がいない。ネリーと生き別れてそれなりに時間が経っているのに、まるで女っ気のない粗末な部屋で孤独に暮らしている。あのルックスでピアノが上手ければ、女に不自由するとは思えない。

 それもこれも、こうなることを見越して、いざとなったらネリーの一族の財産をせしめようという魂胆からの行動、、、と捉えようと思えばそれもアリでしょうが、彼はそこまでの悪党ではないように思います。エスターを名乗るネリーにも極めて紳士的だしね。

 ここから、ネタバレになります。

 果たして、ジョニーの企みは成功するのか。、、、もちろん、しません。ジョニーの知り合いたちの前で、感動の再会を演じた後の食事会。ジョニーは、エスターがネリーだと遂に気付くのです。気付かせたのは、ネリーがその場で歌った「スピーク・ロウ」と、ジョニーが着せた赤いドレスの袖口から見えたネリーの腕に刻印された収容所での囚人番号。

 ピアノで伴奏していたジョニーの手が止まります。そして、ネリーは独唱する。その光景に、呆然としているジョニーの知り合いたち(おそらく彼らはジョニーの企みを知っている)。

 「スピーク・ロウ」の歌詞が、なんとも2人の関係を微妙に映していて、ニクい演出です。ご興味のある方は歌詞を検索なさってください。

 ネリーは、“I wait...”の部分で歌うのを止めて、静かに立ち去ります。果たしてこれをどう解釈するか。私は、ネリーは、結局、ジョニーの下を去る決断をしたのだと解釈しました。なぜなら、、、
 
 歌詞は、この後「愛していると囁いて」と続くのにその前で止めていること。去る時の映像が激しく焦点がぼけて光の中に赤いドレスが消えていくこと。彼女は振り向きもせず、ジョニーに視線を送りもせず去って行ったこと。、、、等々からそう感じました。何より、その直前で、親友のネルが自殺してしまっています。そして、ジョニーが、ネリーの逮捕直前に離婚届を出していたことを証明する書類を遺書代わりに残していたのです。この出来事に接して、ネリーの心は決まったのだと思います。

 ラストシーンが、あまりに悲しく、胸に迫ります。あのバッサリとした幕切れ。もちろん、解釈は人それぞれですが。私がネリーでも、やっぱり、ジョニーとはもう一緒にいられない、、、と思うのではないかな。愛していても、何か、足下から崩れていく感覚だったのだと思います。

 「スピーク・ロウ」、、、良い曲です。いろんな人が歌っているようなので、聴き比べて、本作の余韻に浸りたいと思います。





駅のシーン、ニーナ・ホスの真っ赤な口紅が印象的。




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