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「徳川記 巻四」の解読 5

(散歩道のヒメヒオウギズイセン)

一日、梅雨の晴れ間で、午後女房と散歩に出た。明日からはまた雨降りが続くので、デジカメに少し撮り溜めをした。

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「徳川記 巻四」の解読を続ける。

(永禄)(二?)年三月、駿府に於いて元康卿嫡子三郎信康誕生ある。廿一歳にして遭害(そうがい)。また曰く、信康卿、大久保七郎右衛門が預りにて、二俣に遣(つかわ)して後、生害(しょうがい)、服部半蔵介錯(かいしゃく)す。
※ 遭害(そうがい)➜ わざわいにあう。
※ 生害(しょうがい)➜ 自殺すること。自害。自刃。
※ 介錯(かいしゃく)➜ 切腹をする人の後方にいて,首を切ること。


元康卿大高兵粮入れ永禄三年三月、義元、駿遠参の軍勢を以って退治(たいじ)して、洛都(らくと)に攻め上らんと欲す。先ず、尾州巡見のため、元康公上(のぼ)らるゝ。信長卿これを聞き、鳴海近辺に出張す。数ヶ所の要害(ようがい)を構え、丹家(丹下砦)には、水野帯刀、山口海老之助、柘植玄蕃、善照寺(砦)に、佐久間左京(信盛弟)、中嶋(砦)には、梶川平左衛門、鷲津(砦)には、飯尾近江守(信長公従弟)、同隠岐守、同玄蕃を入れ置き、清州に皈(かえ)る。
※ 退治(たいじ)➜ こらしめたり殺したりして、害を与える者がいなくなるようにする。
※ 洛都(らくと)➜ 京の都。
※ 要害(ようがい)➜ 戦略上、重要な場所に築いたとりで。要塞(ようさい)。


大高の城には、義元、鵜殿長介入れ置く。然るといえども、敵陣間(あいだ)を隔(へだ)て、往来輙(たやす)からざる故、粮(かて)乏しく難儀に及ぶ。義元これを聞き、元康公に命じ、兵粮入れしむべし、と云々。元康公(十八歳)、譜代(ふだい)の勇士千余騎、軍功(ぐんこう)を励(はげま)し、兵粮を入ると称し、ここより、杉浦八郎五郎、同前二郎、鳥居四郎左衛門、内藤甚五左衛門、同四郎左衛門、石川十郎左衛門、遣(つかわ)し廻り候。信長朝臣(あそん)、また巡見のため、鳴海辺に出らる。元康公の曰く、信長、この行(こう)を知り、兵粮を奪わんため、これを出す。鳥井、石川が曰く、敵、近辺に在り。憨(おろか)に兵粮を入れ損じ、敵に奪わる、越度(おちど)たらん、と云々。杉浦曰く、敵、味方の旗を見て、山上より引き下(くだ)るべきことなるに、却って引き上(のぼ)るは、合戦を待つ敵に、急(にわか)に入れらるべき兵粮に非ず、云々。元康公、これに同じられ、兵粮を入るといえども、更に危うからず。諸軍これを感ず。その後、信長朝臣、清州へ引き入るゝ。
※ 譜代(ふだい)➜ 代々同じ主家に仕えること。また、その家系。
※ 軍功(ぐんこう)➜ 戦争での功績。武勲。
※ 朝臣(あそん)➜ 三位以上の人の姓の下、四位の人の名の下に付けて敬意を表す。
※ 越度(おちど)➜ 手落ち。あやまち。過失。

(「徳川記 巻四」の解読つづく)
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