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「竹下村誌稿」を読む 379 風俗習慣 20

(庭の気の早いコブシの花)

今日はこの冬、最強の寒気で、列島は雪だらけである。しかし、当地に雪は舞うことすらない。午後、冬の日差しの中、散歩に出たが、風が寒くて10分ほどで帰って来た。庭にはこの寒風の中、コブシの花が一輪開いていた。

夜、テレビ観戦、ちょっとはにかみ顔で、世界一になってしまった。こんなことが起きるのである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

九月 長月とも云う。九日は重陽の節句とも菊の節句とも云いて、菊花の酒を酌み、老を忘れ、齢を延ぶと云う。その起源は類書纂要に「九は陽数なり。九月と九日並び応じ、故に重陽と曰う」とあるなるべし。古くは禁中にて重陽の宴を張りて、群臣に菊酒を賜わりしが、今は観菊の催しあれども、必ずしもこの日に限られず。従来はこの日、本村氏神の祭礼なりしが、明治四十三年頃より、十月十七日に改む。陰暦十三日は後の月見、また芋名月とて、栗、芋をゆで、月前に供す。昔はこの夜を幸い引と称し、果物、野菜など自他の区別なく、勝手に取り来たりて食せし習いもありしと云う。
※ 後の月見(のちのつきみ)- 陰暦九月十三夜の月見。八月十五夜の月見に対していう。
※ 芋名月(いもめいげつ)- 正しくは陰暦八月十五夜のことを芋名月という。陰暦九月十三夜の月見は、「栗名月」「豆名月」と呼ばれる。「幸い引」が許されたのは、陰暦八月十五夜の話のようだ。


秋分は秋の彼岸の中日にして、行事は春分に同じ。秋の彼岸には遠江順礼とて、榛原、小笠、周智、磐田の各郡に亘りて散在する、遠江三十三所の札所観音を巡拝するもの少なからず。これらは仏教崇拝と災厄祈祷とに基く信仰より出たるものなり。順礼はもと神社仏閣を巡拝するを云い、仏法の信仰盛んなるに伴い、霊場巡拝のこと流行し、後に三十三所観音巡礼のことあるに至る。而して西国三十三所観音順礼は平安朝時代より初まりしものゝ如くなれども、遠江三十三所順礼の始まりしは室町中葉時代にありしと云う。

農家は日を逐(お)うて秋収に忙しく、夜業をなすに至る。夜業の期間は秋の彼岸より翌年春の彼岸に至る間と定め、この期間は何れも夜業に従事するを常とす。この月は天候不穏にして、暴風襲来の時期とて警戒を加え、特に二百十日、二百二十日、陰暦八朔などを厄日と称し、農家はこれを厭う。もしこの日静穏なれば休業して祝う。
※ 陰暦八朔(いんれきはっさく)- 「八朔」は、八月朔日のこと。旧暦8月1日。

十月 神無月と称す。一日は神送りとて、赤飯を神前に備う。第一の亥の日は玄猪(げんちょ)の祝日にて、亥の子餅とて牡丹餅を神仏に供す。十七日、神嘗祭。二十日は夷子(えびす)講とて、商家にては種々の馳走を備え、福神を祭る。三十一日、天長節。この月、禅宗に達磨忌あり(五日)。浄土宗に十夜講あり(六日より十五日まで十夜間法要)。法花宗に御影供(みえいく)あり(十三日)。真宗に報恩講あり(二十八日)、俗にこれをお取越と云う。十一月に行うべきものを拾月に取り越すを以ってなり。
※ 玄猪(げんちょ)- 亥の子の祝(いのこのいわい)。収穫祭の一。
※ 天長節(てんちょうせつ)- 大正天皇の誕生日は8月31日であったが、酷暑の時期のため、10月31日にずらして実施されることになったという。


読書:「猫見酒 大江戸落語百景」 風野真知雄 著

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